9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

煙草のお話し。それと感情のお話も。豆乳のお話しもついでに。

煙草に火を付ける

赤から白っぽい紫が揺れ始める

上を目指し、しかし、幾度となく挫折する

その姿は、立派なものではないか

皮膚病のおかげで全身が赤茶色した猫に餌を与えては

愉悦足る者共よ

「辛かったね、痛かったね、もう大丈夫よ」と

同情し、涙を耕し、未来を見せる

マスコミの餌食にされることを

最大の幸福と思う貴様らの、何倍も立派なことか!

褐色の生ぬるい水には嫌悪感を表すというのに

皮膚病の色ならば涙するとは!

こいつらは動物の女衒(ぜげん)だ!

ああ、なぜお前らの感情は、いとも簡単にすべてを見下せるのだ

お前らの感情は、ベルトコンベアで運ばれてくるというのか?

もしかとは思うが

工場で規格品としての感情が作られているのではないだろうな?

その過程のうちに

歪な精神と感情は廃棄されているのだな!

なるほど、ならば私は唯一

皮膚病だけに同情しよう

皮膚病の精神を讃えようではないか!

 

 

「あなたたちの感情はどこにあるの?

本当に君のもの?

感情までをも、ネットから引きうけるの?

言葉も、感覚も、すべて?ねえ、答えて

励ましも、勇気も、希望も、絶望も、誰のもの?

あなたはそれを持っているの?

都合よく、検索して、それらの感情の使い方を学ぶというの?

傑作ね!そう、調べることは大切なことだものね

そうやってあなたたちは、誰でもないあなたたちになっていくのね

無様ね。そこに一体どんな音が木霊していると思う?

聞いたことはない?教えてあげようか?

なに、その顔は。怒っているのね

それも検索した『怒り』ね

ふふっ、どう、『怒り』の使い方はわかったかしら?」

 

 

 豆乳を買う。ストローで銀の薄膜を貫通させ、容器の底にストローを当てる。上下についた褐色の肉の間に、その白く透明がかった円柱を挟み、液体を吸い上げる。豆乳は、この世界で最も可憐で、無機質で、抱擁感を持ち得る、唯一のものである。精神的無防備な人間に付け込むのだ。これらを飲むとき、我が世の春が訪れる。だが、それは束の間のうちに、一挙手一投足の間も与えぬうちに、移ろう。

 

『 」硝子が砕ける「

」赤く染まっていく「

」電線から覗く、空の形に似た傷ができる「

」物悲しく、その傷は鳴く「

」音楽で病気を患えば、少しは変わるだろうか「

」沈黙も、狂乱も、そして絶望さえも、この私こそが主人なのだ「

」果たして我々は、無関心によって青春を買い戻すことができるだろうか「

」ああ、季節よ、どうかそこに留まっていてはくれないだろうか「

」怠惰な吹き溜まりとなってしまっても構わないのだ「

」花も、木々も、景色も、香りさえも、私なのだ「』

 

[ねえ?]

[なに?]

[私たちの精神性ってどんなのか、春は知ってる?]

[えーっとね、ゴテゴテしたピエロみたいな精神性かな。道化的精神。見苦しいほど素っ裸になればいいのに、とは思う]

[ふーん、ところで、自己紹介は終わった?]

 

{{{安心したまえ。貴様らの精神も代替物だ}}}

 

私たちが生まれたときのお話し。それと大人のお話し

ふと思い出す

愛惜のものとして

皮肉にも、私たちの過去はこれでしかない

ただただ黒く、暗い景色の万華鏡

こうしたものに私たちは五感を投げ入れる

そして、懐かしさに胸が憂いる

熟した林檎のように

秋の夕焼けの美しさの中で寂しそうに揺れる

ススキのような静けさをもって

私たちは思い出す

私たちが生まれたとき

道はすでにアスファルトだった

アスファルトの続く直線、アスファルトの描く曲線

雨を弾き、水たまりをつくるのはアスファルトだった

太陽が照らすのも、汗を落とす場所さえも、アスファルトだった

汗の落ちる場所は、歩む道は、いつも黒い。暗かった

空は青く、地は黒く、暗い

陽炎の生きる場所だって、いつだって

アスファルトは飲み込んだ

私たちの黒い瞳は、黒だけを飲み込んだ

私たちの思い出は、アスファルトで圧殺される

緑の風景を下から支えるのは、我らが生んだ新しい黒色

日々の疲れからヒビの入ったアスファルトに、黒い蟻が歩を進める

蟻の足場までも黒くなった

雨が降っているわけでもないのに

この黒さは発展の標

この暗さは繁栄の証

私たちの住む青い星が真っ黒になるまで

人類は、ガラの悪い黒塗りのポンコツをこしらえ続けるのだろうか

暗い幻想と黒い事実

黒く濁った思い出の道は、私たちを生んだ大地だ

ションベンかけて、唾をみなぎらせよ

虫唾の走り出すままに

 

 

「大人ってなにか知ってる?」

「んー、妥協できるようになった人?」

「惜しい」

「えーっと、わかんない」

「ホルマリン注射されて、ピンで止められた標本箱の中で立派に胸を反らす人のことよ」

「ぜんぜん惜しくないじゃん」

「そんなこと、どうでもいいでしょ?」

 緑がそう色づくと、春は芽吹き出した。春は緑に日差しを与える。

「緑は大人がきらいなの?」

「嫌いよ。だって、ムカつくもの」

 春は緑が新緑に対して送る軽蔑のまなざしを思い出しながらうそぶく。

「子供にだってムカつくくせに」

「それとこれとは話は別なの。いい?子供にムカつくのは無神経だから。んで、大人にムカつくのは、頭が悪いくせに、自分はよくできたオツムを持ってると自信ありげに振る舞うから。自分がどうしてそういうふうに出来上がったか知らないくせにね。それで、そのことにあぐらをかいて、ぺらぺらと口をぱくぱくさせるのよ。そんなところであぐらをかいたところで、菩薩にだってなりゃしないのに」

「緑はおもちゃ箱みたいね」

「バカにしてるの?」

「最高に褒めてるよ。そうね、ショットガンで頭をブチ抜きたいくらいには、褒めてるつもり」

「カートになんてなりたくないよ」

 春は過ぎ、緑はますます深くなる。

 

 

 

 

 

 

ママが発狂したんだ

 ママが今日も発狂したんだ。ママは昨日も発狂した。一昨日だってそうだったんだ。右手の指が5本あるってことにね。

「私の指はきっと3本だったはずよ!なにが悲しくて5本なのよ!」

 ママはそう言って、親指と薬指に噛みつくんだ。そのおかげでママの右手の指はいつもよだれまみれ。それに歯の痕がびっしり、第一関節がどこかわからないくらいにね。僕はそのよだれの滴るのをぼんやりと眺めながら、ビートルズの「ゴールデンスランバー」を聴くんだ。それが好きで、いつもそうしてる。ママはそのまま発狂の微睡みに飲み込まれていくってわけさ。僕が聴き終わったと同時にママの発狂は静寂へと一変するんだ。つまりね、ママの発狂は「ゴールデンスランバー」なんだ。ちょっと素敵だろ?

 発狂の唸りの後には、いつもコーヒーを飲むんだ。ママは虚ろな目をしたまま台所に行くんだ。それからコーヒーポットを皿にぶつけてガチャガチャ鳴らしながらシンクまで持ってきて、それからフィルターをセットするんだ。その一連の動作を見ていると、墓守をしている老婆によく似ているとよく思うんだ。別に批判したいわけじゃないんだ。それは高尚なことだと思ってるからね。ただ、その足取りを見ていると少し心配になるんだ。一体、墓に入っているのはどっちなんだってね。つまり、死んだように生きてるってことさ。もしよかったらでいいんだけど、ママの墓石を誰か蹴り飛ばしてくれないかな?僕?僕は無理だよ。だって、墓石って重いんだぜ?あんなものを動かせる気力があるなら、ママを病院に連れていくさ。当たり前だろ?

 ママのコーヒーははっきり言ってまずい。市販のコーヒーをまずくする才能があるんだ。タイヤを燻したような香りのコーヒーをいつもご馳走してくれる。どうすればこんな廃棄場を建設できるのかいつも不思議に思ってるよ。一度だけこのことをママに言ったことがあるんだけど、そうしたらママは、鳥みたいにキャッキャッ、ケラケラ笑ったんだ。長く黒い艶やかな髪を大きく揺らしてね。口の中の赤い肉も痙攣してた。お得意のよだれもねっとりとママに合わせて笑ってたんだ。笑いがママと戯れてた。僕はそのときね、綺麗だなぁー、ってそう思ったんだ。何かの物語を見ているような気持ちになった。何かが壊れるとき、その崩壊の裂け目から風景が一瞬、人を捉えるように、一種の美しさとしてね。そのことに誘惑される恍惚と不安とともに歩いてた。

 きっと、ママは明日も発狂する。明後日もね。僕はそれを眺めながら「ゴールデンスランバー」を聴く。そしてまずいコーヒーを飲みながら、ママの横顔を視界の片隅に捉える。これが僕の日常で、これが僕の毎日ですべて。

 明日もきっと、素敵な「ゴールデンスランバー」を。