9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

ママが発狂したんだ

 ママが今日も発狂したんだ。ママは昨日も発狂した。一昨日だってそうだったんだ。右手の指が5本あるってことにね。

「私の指はきっと3本だったはずよ!なにが悲しくて5本なのよ!」

 ママはそう言って、親指と薬指に噛みつくんだ。そのおかげでママの右手の指はいつもよだれまみれ。それに歯の痕がびっしり、第一関節がどこかわからないくらいにね。僕はそのよだれの滴るのをぼんやりと眺めながら、ビートルズの「ゴールデンスランバー」を聴くんだ。それが好きで、いつもそうしてる。ママはそのまま発狂の微睡みに飲み込まれていくってわけさ。僕が聴き終わったと同時にママの発狂は静寂へと一変するんだ。つまりね、ママの発狂は「ゴールデンスランバー」なんだ。ちょっと素敵だろ?

 発狂の唸りの後には、いつもコーヒーを飲むんだ。ママは虚ろな目をしたまま台所に行くんだ。それからコーヒーポットを皿にぶつけてガチャガチャ鳴らしながらシンクまで持ってきて、それからフィルターをセットするんだ。その一連の動作を見ていると、墓守をしている老婆によく似ているとよく思うんだ。別に批判したいわけじゃないんだ。それは高尚なことだと思ってるからね。ただ、その足取りを見ていると少し心配になるんだ。一体、墓に入っているのはどっちなんだってね。つまり、死んだように生きてるってことさ。もしよかったらでいいんだけど、ママの墓石を誰か蹴り飛ばしてくれないかな?僕?僕は無理だよ。だって、墓石って重いんだぜ?あんなものを動かせる気力があるなら、ママを病院に連れていくさ。当たり前だろ?

 ママのコーヒーははっきり言ってまずい。市販のコーヒーをまずくする才能があるんだ。タイヤを燻したような香りのコーヒーをいつもご馳走してくれる。どうすればこんな廃棄場を建設できるのかいつも不思議に思ってるよ。一度だけこのことをママに言ったことがあるんだけど、そうしたらママは、鳥みたいにキャッキャッ、ケラケラ笑ったんだ。長く黒い艶やかな髪を大きく揺らしてね。口の中の赤い肉も痙攣してた。お得意のよだれもねっとりとママに合わせて笑ってたんだ。笑いがママと戯れてた。僕はそのときね、綺麗だなぁー、ってそう思ったんだ。何かの物語を見ているような気持ちになった。何かが壊れるとき、その崩壊の裂け目から風景が一瞬、人を捉えるように、一種の美しさとしてね。そのことに誘惑される恍惚と不安とともに歩いてた。

 きっと、ママは明日も発狂する。明後日もね。僕はそれを眺めながら「ゴールデンスランバー」を聴く。そしてまずいコーヒーを飲みながら、ママの横顔を視界の片隅に捉える。これが僕の日常で、これが僕の毎日ですべて。

 明日もきっと、素敵な「ゴールデンスランバー」を。