9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

ママが発狂したんだ-2-

 ママが発狂したんだ。だらしなく舌を垂らして、そこからお得意のよだれをビヨー、ビヨーってさせてる。その垂れる気泡の混じる透明な液体が胸に落ちていくんだ。それをママは、赤く伸びる舌を使って追いかけていく。横から見ている僕は、肉としての赤さを称えるように張り巡らされた、舌の裏の血管が羨ましく思えてくるんだ。なぜかって?そんなの、知らないよ。

 今は朝の8時。ママはソファから無造作に足を放り出して、鼻をほじりながらよだれをビヨービヨーさせてる。胸元に落ちるよだれがそのままズボンにまでいくものだから、ズボンももう、よだれまみれ。ふと思ったんだけど、ママは昨日の夜からこうしてるんだろうか。

 黒く長い艶のある自分の髪に、ママは嫉妬してる。嫉妬しているママに話しかけるのには、相当の勇気が必要なんだ。これは、1週間前の話なんだけど、ちょっとだけ聞いてほしい。

 1週間前のその日、雨が降っていたんだ。とても優しく、寂しく、悲しい青色の雨だった。外にある緑色たちは、悲しい青色に濡れながら、滴る水と遊んでたんだ。夢みたいな音を鳴らしながらね。それを見たママは、急に立ち上がったかと思うと、裸のまま外に飛び出していったんだ。そしてママは、雨と同化しようと必死になった。緑と青とママと。その妖艶な黒い髪が、ますますその妖艶さを醸し出した時、ママは嫉妬で怒り狂ったんだ。そうなんだ、ママ自体は同化しきれなかったんだ。緑にも、雨にも、青にも、そして悲しみにも。でも、髪だけは同化しきったんだ。世界そのものとね。そのことに、ママは耐えられなかった。

 それからママはひどく落ち込んでいたし、話しかけると、噛み付くようになったんだ。自分にね。ゆらゆら自分の髪を揺らしては、その揺れる髪を見て泣いてたんだ。歯茎をむき出しにしたり、スイカを一口で食べきれそうなくらい口を大きく開けたり。顔面が顔面でなくなるくらいに泣いてたっけ。

 この日から今日に至るまでの日、家にはママの嗚咽と、ママの黒い髪がママを嘲笑う響だけがあったんだ。でもそれは、ホントウに、ホントウに、生そのものの実践だったんだ。

 そして、ママは今日こう言ったんだ、許しを見下しながらね。

 

  「肉体を使い果たすことができるだろうか?ねえ?んんっ、肉体は使い果たすべきものなのかしら?ふふっ、それほどまでに、骨と、肉と、皮と、臓器たちはそれほどまでに宝なのかしらね?私にも少女だった頃があったのでしょうね。まだ、臓器たちがあんまり酸化していない頃ね、んぁ。今なんてもう、酸化しきっちゃって、臭くて眠れやしないわ。強いられた肉体、強いられた人格、強いられた舌の赤さ、強いられた社会、強いられた成功、強いられた言葉、強いられた形、ふふっ。みーんな演技よ、きっと。仮面舞踏会に迷っちゃったのよね、そう、あなたも、私も、みーんな。まぬけよねー。マーチ好きのどこぞのアホと一緒ね。定まった装いをしなきゃならなかったのよ。束の間の演技、その舞台をでっち上げること。そしてそれに迎合すること。それが権力なのよ。肉体もぜーんぶ、舞台装置として機能するための、生産装置としての、そうね、おもちゃにすぎないの。私の肉体はおもちゃなのよ。大事に扱いなさい。もちろん、あなた自身の肉体もよ、あはっ。でもね、そこに実体はないのよん。」

 

 

 

「生動」

幼気(いたいけ)なママ

思いもかけずに走り出す

近隣に群がる群衆どもは憔悴する

逃げ出すその先にある

滴る樹木の汁が

ママのため息とともに蒸発していく

住居を取り払われたママ

空の落下に耐えられぬその精神と

黒く苦々しいペストが上昇する

小川に見つけた小さな呪詛に身を預け

轟音のなかに静けさ求め

勇敢なる種子となりて

ママは今日も発狂する