9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

緑物語2

 今日は1/1。元旦です。緑ちゃんは目を覚ましました。まだ眠い目をこすり、目のざらざらをとりました。年が変わったからといって、特になにか変化が起きるわけがありません。急に関西弁しか話せなくなるとか、そういうのもないのです。そうなったら、めっちゃおもろいけどな。なあ?めっちゃおもろいやろ?おもろいいうてるやんけ!

 緑ちゃんはぎこちない関西弁で怒鳴り散らかしました。それでとりあえず覚醒しました。時計を見ると、9時17分。まあ、いい感じに起きれたかな、と緑ちゃんは1人そう思ったのでした。

 

 おかあさんがお雑煮のお餅を何個にするかと私に問いました。私はとても混乱しました。この母親は、お餅で喉を詰まらせ、死にゆくガキがどれほどいるか知らないのか、と。でも、その混乱とお母さんへの不信感の他に、もう一つ感じたことがありました。それを感じたとき、私は文字通り、背筋がゾクッとしました。そして、股のところがムズムズしました。

 死です。私は毎年、お餅2つです。でももし、もしも数をふやしたなら......

 2つから3つへ数を増やしたなら、私はお餅を喉に詰まらせる可能性が増えてしまう。私は、何気ない母との会話での決定によって、有限ということから離れてしまう。離れ、別れる。餅はもちもち。

 生活に死はある。だが今では、家で家族を看取るという経験は少なくなってきている。どこかのボケはSNSで、高齢者が増えているからこれからどんどん死が生活にありふれたものになるとか言っていた。数字だけの話でみればそうかもしれない。しかし、ほとんどの死は病院にある。現代の姨捨(おばすて)山は病院になった。

 昔は家に死があった。その匂い、感覚、手触り。それは今では排除された。死は家から掃き出された。だから今後とも、死は生活のなかにありふれたものにはならない。より徹底的に、死は白い建物のなかにいる、白いロングドレスをきた人間の元へと送り出される一方である。

 生活に死はある。だが、死に場はない。

 私は怖くなりました。3つを選ぶこと。決定すること。決断するということの狂気性を実感しました。そこで私はとても頭のいい子供なので、習慣に頼ることにしました。習慣は怠惰、安心なのです。なので、

「うーんとね、2つ!」と、母に伝えました。

 

 お雑煮を食べた後、緑ちゃんは両親に連れられ、祖父母の家に行くことになりました。正直、あまり行きたくありませんでした。でも、緑ちゃんは機嫌が良かったので行くことに決めました。

 祖母は認知症とかいう病気です。程度についてはよくわかりません。祖母はこうくりかえしました。

「今日は、どうしたの?どうしてきたの?」と、何度も問います。私は感心しました。同じ問題について、何度も問い直す。その勇気に感服しました。お母さんは、

「今日がお正月だからだよ」と、何度も繰り返しました。お母さんも認知症かしら?と思いました。

 あーあ、なんかつまんない。私はそう思いました。そう思っただけでした。ごろんと寝そべり、天井を見ました。

 

 そこには、なにもありませんでした。