『大衆の反逆』はどんな本か
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット, 筑摩書房, 神吉敬三, 1995
『大衆の反逆』を勝手に妄想的に調べてまとめちゃ。
眠いのと、結構めちゃくちゃそうなので、また後で編集予定。
ここからいきなりスタート
章ごとの要約
第1章「大衆の到来」
現代ヨーロッパにおける「大衆人(mass-man)」の出現を指摘する章である。オルテガは「大衆」の台頭が当時のヨーロッパ社会における決定的事実だと述べる。ここで言う「大衆」とは必ずしも特定の社会階級を指すのではなく、特別な資質を持たない平凡な人々のことであり、彼らがあらゆる領域で多数派として社会的権力を握り始めたと論じる。人口の増大や都市化によって、第一次世界大戦後の社会では「目立たなかった大衆」が姿を現し、政治・文化・生活のすべての領域で無視できない存在となった。伝統的には社会は有能な少数者(エリート)と平凡な多数者(大衆)に分かれてきたが、この区分が曖昧になり、これまで少数者だけのものだった恩恵(例えば高い教育や娯楽)が大衆にも行き渡っていると説く。
第2章「歴史的水準の上昇」
歴史的に見た大衆台頭の背景を論じる。オルテガは、ローマ帝国以来の歴史において社会は基本的に貴族的(エリート支配的)であったが、近代に至り劇的な変化が生じたと述べる。産業革命以降、都市への人口集中と社会的流動性の増大により、少数者だけのものだった生活水準や権利が多数者にも共有されるようになった。例えば古代では貴族の館にしかなかった浴場が、公衆浴場として万人のものになったことや、法の下の平等・参政権といったかつては一部に限られた権利が今や大衆一般の「当然の権利」となったことを挙げている。19世紀以降、社会的な平準化(レベリング)が進み、異なる階層間・性別間、さらには欧米と他地域の間で生活水準が近づいたと論じ、これを「歴史的水準の上昇」と表現する。また、この変化は単に欧米が先進で他が遅れる「アメリカ化」ではなく、世界的に同時並行で起こったと主張する。
第3章「我々の時代の高さ」
現代という時代精神の特異性について述べる。オルテガは人々が自らの時代を過去と比較して「前代未聞の高さ(高度)」に達したと感じていると指摘する。しかし同時に、現代人は伝統的な指標を失って不安定でもあるという。彼は「現代人は突然地上に一人残されたように感じている。もはや過去から助けは得られず、伝統的な規範は蒸発してしまった」と述べ、過去との連続性が断たれた感覚を描写する。つまり現代は過去いかなる時代よりも豊かで強力だが、同時に不安で方向性に欠ける時代である。現代社会は自己を「これまでの時代より勝っているが、まだ完成していない始まりの時代」と見なしており、自信と不安が同居する複雑な自己意識を持つ。
第4章「生命の増大」
技術進歩による生活圏の拡大について述べる。交通・通信の発達によって、人間の経験世界が飛躍的に広がったと指摘する。映画や写真、新聞などにより、遠隔の出来事が即座に身近な人々にも知られるようになり、生活が文字通り「世界化」した。また高速交通により空間と時間の制約が緩和され、「世界のあらゆる場所に短時間で行ける」というスピードの崇拝が生まれたとも述べる。オルテガは、このような可能性の拡大により、人々の意識には「自分には無数の選択肢がある」という感覚が芽生えたと論じる。彼は人生を「可能性の購入」と喩え、現代人は過去の人々よりもはるかに多くの選択肢と機会を手に入れたが、それゆえに逆に方向喪失や精神的空虚が生じる危険も示唆している。
第5章「統計的事実」
19世紀以降の平均的人間の生活改善を論じる。オルテガはまず哲学的に、人間の生は自ら可能性を選択していく連続的決断であり、運命にただ流されるものではないと述べる。その上で19世紀後半から20世紀初頭にかけて、平均的人間(中間層)の物質的・社会的境遇が飛躍的に向上した事実を強調する。産業と科学の発展、自由主義的民主政により、過去の庶民が一生背負わざるを得なかった経済的重荷や身分的制限が大きく軽減された。19世紀社会は革命的変化を遂げ、かつては偶然の恩恵と感謝されたものが今や「生まれながらに要求して当然の権利」と見なされている。法的平等や基本的自由が行き渡り、一般人の生活には前例のない安定と選択肢が与えられた。しかしその結果として、大衆は文明の恩恵を当然視し、その背後にある努力や創意を意識しなくなったとも指摘する。オルテガはこれを象徴する例として、「群衆はパンが足りないとパン屋を襲撃する(パンが欲しくてパン屋を壊す)」という逆説的な行動を挙げている。
第6章「大衆人の解剖開始」
現代の「大衆人」の精神構造の分析に本格的に踏み込む章である。ここからオルテガは大衆人の内面的特徴を解明しようとする。大衆人とは質的に「凡庸」な人間であり、自分が凡庸であることに満足していて向上を求めない人々を指す。彼らは高度な文明社会に生きながら、その文明がもたらす恩恵を当然視し、感謝や畏敬の念を欠いている。つまり「歴史の申し子」として振る舞い、自らを取り巻く秩序や制度が長い歴史的努力の成果であることを忘却している。大衆人は自らを特別視せず「自分は他の誰と変わらない普通の人間だ」という自己像を持ちながら(これは謙虚さではなく向上心の欠如を意味する)、同時に自分の欲求を無制限に正当化する傾向を持つ。彼らは生活上のあらゆる権利やサービスを「当然のもの」と考え、それが滞れば不平を唱えるが、では自分が社会に何を貢献すべきかという発想には乏しい。また知的側面では、彼らは高度に専門化した知識社会に生きていながら全体的教養や歴史意識を欠き、自分の専門外の領域に対して無知であることを恥じない傾向がある。これは後の章で論じる「専門化という野蛮」にも繋がる指摘である。
第7章「高貴な生と平凡な生、すなわち努力と惰性」
「選ばれた人」(エリート的人間)と「大衆人」の対比を明確にする章である。オルテガはまず現代人は生まれつき自由で平等な環境に置かれ、そのことを疑いもしないため、「自分は今のままで十分だ」と満足しやすいと述べる。これに対し、伝統的に「高貴な人」と呼ばれる人々は自らに厳しい義務を課し、絶えざる努力によって自己を高めようとする者である。オルテガは「人類を二種類に分ける最も根本的な区別は、自らに多くを要求する者と、何も特別なことを要求せず今の自分に安住する者である」と述べている。高貴な人(エリート)は自分を他人より優れているとは考えないが、高い目標を掲げ絶えず自己改善に努める。一方、大衆人は努力や向上心を嫌い、ただ「今の自分のままでいたい」という惰性的な生き方をする。高貴さとは本来、地位や血統ではなく「課された義務への主体的な服従」によって決まるとオルテガは説く。貴族階級に世襲で伝わる名誉ではなく、各人が努力を重ねることでのみ高貴さは獲得されるという。そして大衆人にはこのような自己に対する厳しさがなく、内面的惰性こそが大衆人の本質だと結論づける。
第8章「大衆はあらゆることに干渉し、その干渉はただ暴力による」
大衆支配時代の政治・社会的動向を分析する章である。オルテガは、大衆人はあらゆる分野に自己を押し付けようとするが、その手段は理性や正当性ではなく力ずく(暴力)になりがちだと論じる。例えばファシズムや極左運動に見られるように、近代には「理不尽である権利」を主張し、対話や合理的議論を拒絶して自説を強引に通そうとする人々が出現した。これは「不合理の理屈」とも呼ぶべき新しい風潮であり、オルテガはこれを大衆反逆の極致とみなす。また彼は当時の識者ヴァルター・ラーテナウの言葉を引用して、これを「蛮族の縦帆」に喩えている。すなわち文明社会の内部に文明のルールを理解しない人々(内なる蛮族)が下から突き上げる現象である。具体的には、大衆人は高度に発達した科学技術文明の恩恵(例えば自動車や各種便利な製品)は享受するが、その背後にある科学的探究や知的努力には関心を示さない。オルテガは「現代世界は文明化されているが、その住人である人間は文明化されていない」と指摘し、技術の果実だけを貪りつつ文化的・知的素養を欠く大衆が社会の前面に出てきたことを危機として捉える。その結果、政治や経済の領域でも大衆的な短慮や欲求が直接表出し、合意や法手続きを軽視した暴力的介入が横行すると警告する。
第9章「素朴な人と技術的人間」
大衆人の「原始性」と近代技術文明との齟齬を論じる(第8章の議論を継続している)。ここでは大衆人を「文明化された武器を手にした未開人」とみなし、そのアンバランスさを指摘する。科学技術の進歩によって誰もが高度なツールを使えるようになったが、大衆人はそれを理解することなく使いこなしており、価値観や倫理観は前近代的なままであると批判する。例えば、自動車や飛行機といった先端技術を利用しながらも、その安全や社会的影響への配慮は乏しく、子供が強大な力を持つ玩具で遊んでいるような危うさがある。さらに大衆人は、自身が専門とする狭い領域以外では無知であるため、政治や文化といった複雑な課題にも素朴な解決策しか持ち合わせず、結果として強権的な手段に訴えやすい。オルテガはここで、近代の技術的人間の出現にも言及する。技術者や専門家といった知識層でさえ、自らの狭い分野に特化するあまり、他の広範な知的伝統や倫理から切り離され、「専門バカ(無教養な有能人)」となっている危険を指摘する。これは後の第12章のテーマにつながるが、つまり高度に分業化・専門化した社会では、一人一人は技術的能力を持ちながら全体としては原始的思考に留まるというパラドックスが生じていると論じている。
第10章「原始主義と歴史」
文明の存続に必要な歴史意識の重要性を説く章である。オルテガは、「自然」は常に我々と共にあるが、「文明」は脆く一時的なものだと強調する。文明は何世代にもわたる努力と蓄積によって築かれるが、大衆人はその歴史的蓄積への敬意を欠いているため、文明の維持に必要な知恵が失われつつあるという。過去の文明が崩壊した例(例えばローマの滅亡など)を引き合いに出し、文明崩壊の原因は外的侵略だけでなく内側からの歴史的記憶の喪失にもあると指摘する。現代社会の問題は、かつての文明崩壊のように明確な道徳的退廃や宗教的頽廃が原因ではなく、人々が自らの文明の原理を理解せずについていけなくなっていることにあると述べる。言い換えれば、技術や制度が高度化し過ぎた結果、市民の精神的成熟がそれに追いつかず、自らの作り出した文明に人間が適応できない原始化現象が起きていると警告する。そこで必要なのが歴史の教訓であり、人類は歴史を通じて文明の原理を学び続けなければ同じ過ちを繰り返すと強調する。オルテガにとって歴史意識とは文明維持の技術そのものであり、大衆人の反逆とはこの歴史からの逃避でもある。
第11章「自己満足の時代」
20世紀初頭を覆う精神的傾向としての自己満足を論じる。オルテガは当時の時代精神を「自己満足的」で「近視眼的」だと批判する。大衆人は物質的には恵まれ、法律上も平等で自由であるため、自分たちの生き方に満足しきっている。彼らは権利は主張するが義務は果たさない傾向があり、「自分は何をしても許される」という甘えが見られる。この章では特に、「権利の氾濫と義務感の欠如」が文明を蝕むと警告する。すなわち現代社会は「権利ばかりが声高に叫ばれ、他方で自発的な遵法精神や道徳的義務の意識が希薄」な状態にある。オルテガはこのアンバランスを危険視し、「規範なき自由」は結局のところ全ての規範を否定する一種の倒錯した規範に成り下がると述べる。これは無規範(アノミー)の状態であり、文明社会の基盤である合意の倫理が崩壊してしまう可能性がある。要するに、第11章は大衆人によってもたらされた価値相対化とモラルの空洞化を批判している。
第12章「『専門化』という野蛮」
高度専門化社会における知識人の問題を扱う章である。オルテガは現代文明の特徴である科学・学問の専門分化に着目し、それが新たな形の「野蛮」を生んでいると論じる。ここで言う「野蛮人」とは昔の未開人ではなく、自分の専門分野では高度な知識を持ちながら、他の領域では無知蒙昧であるような人間を指す。例えば高度な科学者や技術者であっても、社会全体の哲学や芸術、倫理については全く理解せず、にもかかわらず自分は何でも知っているかのように振る舞う人物像である。オルテガはこのような「専門バカ」が大量生産されたことを批判し、彼らもまた大衆人の一種だとみなす。知識の細分化により、各人は自分の狭い領域では達人になったが、全体の文化や知的伝統との関連を喪失した結果、全体として見るとかえって非理性的で野蛮になっているという逆説を指摘する。これは現代文明に特有の危機であり、専門家集団が自らの専門以外に無関心なまま影響力を持つと、社会の知的水準は低下し、判断を誤る危険が高まる。オルテガは真の教養とは幅広い文化的視野と謙虚さに基づくものであり、それが欠如した専門人は文明の破壊者にもなりうると警告する。
第13章「最大の危険たる国家」
大衆支配がもたらす政治的帰結としての国家の膨張を論じる。オルテガは、大衆人が自らの欲求を無制限に主張した結果、国家(政府)に対して過剰な期待と要求が集中するようになったと指摘する。大衆は社会の複雑な問題を自分達で解決することは望まず、強力な国家にそれを依存しがちである。その結果、国家権力が肥大化し、市民生活のあらゆる面に干渉する傾向が強まる。オルテガは「本来、公共的秩序において大衆は自ら進んで行動する部分ではなく、指導・組織される側であるべきだ。ところが大衆が指導者を押しのけて自ら行動し始めると、結局は巨大な国家機構に頼らざるを得なくなる」と論じる。これは、無秩序に自己主張する個人たち(大衆)が互いの利害を調整できないため、最終的に調停者として全能国家が登場し、かえって個々人の自由を制限するという皮肉な帰結を意味する。歴史上、強大な官僚制国家(全体主義国家)が生まれる背景には大衆化があるとし、オルテガはこれを近代の最大の危機と捉えている。彼は、自発的結社や伝統的権威といった中間団体が崩壊し個人と国家が直接向き合う状況になると、人々はかえって国家の奴隷になると警告する。これは20世紀に勃興したファシズムやソビエト的全体主義を予見するような議論であり、オルテガは大衆の反逆が究極的には国家による自由の抑圧を招くと結論づける。
第14章「誰が世界を支配するのか?」
本書の締めくくりとして、今後の世界統治の展望を論じる章である。オルテガは、第一次大戦で帝国主義的な旧秩序が崩壊し、各国がナショナリズムのもとバラバラになったヨーロッパにおいて、誰が新たな秩序を作るのかという問題を提起する。彼は前章までの議論を踏まえ、大衆人の思考形態や支配は持続不可能であり、このままでは文明が行き詰まると主張する。では代わりに何が世界を導くべきか。オルテガは「選ばれた少数者」(エリート)による指導を再評価し、精神的権威にもとづく新たな秩序の必要性を説く。彼によれば、どの社会も結局は「公意(パブリック・オピニオン)」という共有された前提によって統合されており、それが崩れると力(暴力)による支配しか残らない。20世紀初頭の大衆の反逆は公意の崩壊であり、このままでは暴力的な権力闘争が続くと予見する。オルテガは欧州諸国が国家の枠を超えて連帯し、教養ある少数者が協力して世界(少なくともヨーロッパ)の秩序を立て直すべきだと示唆して章を終える。事実、彼は欧州連合の先駆けとも言える「ヨーロッパ合衆国」構想を支持し、国家主義を超えた連合体制とエリートの連帯を理想に掲げていた。
以上、第1章から第14章までそれぞれの要点を概観した。総じて『大衆の反逆』は、20世紀に顕在化した「大衆人」という新しい人間類型の台頭と、それによる文明社会の危機を、多方面から分析した著作である。
主要テーマの分析
『大衆の反逆』全体を通じて議論される主要テーマを、以下の観点から分析。
大衆の台頭とその問題点
オルテガ最大の関心事は「大衆の台頭」そのものと、それがもたらす問題である。19世紀から20世紀初頭にかけて、民主化・工業化・人口増加によって大量の平均的人間が社会の主役になった。この現象自体は歴史的進歩の結果であり、必ずしも悪と断じているわけではない。実際、オルテガは大衆の登場を「空前の重要事実」と認め、その前提で議論を始めている。大衆の台頭により、社会のあらゆる領域が「万人化」し、文化的娯楽から政治参加まで広範囲にわたって大衆が主導権を持つようになった。これ自体は平等化・民主化の結果だが、オルテガはそこに深刻な副作用を見出す。
最大の問題点は、大衆の精神的態度である。オルテガによれば、大衆人は「努力なき自己満足」と「歴史への無知・忘恩」という特徴を持つ。彼らは近代文明の産物である数々の恩恵(自由、豊かさ、権利)を生まれつき当然のものと考え、それを維持する努力や歴史的背景を顧みない。この結果、大衆は文明のインフラを支える価値や制度を軽視し、自分達の欲求不満があれば即座に不平を唱えるが、解決のためには安易に暴力的・権威的手段に訴えようとする。例えば、食糧が不足すればパン屋を襲撃するように、現代文明でも不満があれば制度そのものを破壊しかねない衝動性がある。オルテガはこれを「大衆の反逆」と表現し、文明社会に対する一種の自己破壊的な反抗とみなした。
また大衆人は、自らが凡庸であることに満足しているため、知的・道徳的向上心を欠いている。彼らは自分と同じ平凡な多数者以外の存在(卓越した個人や専門的権威)を認めたがらず、「誰もが自分と同じ平凡さに従うべきだ」という同調圧力を生み出す。これは平均への平準化(メディオクレ化)の圧力であり、優れたもの・異質なものを容赦なく引きずり下ろそうとする傾向として現れる。オルテガは「大衆はそれぞれ異なるもの、卓越したもの、個性的で選ばれたものをその下に押し潰す。みなと違う者、みなのように考えない者は排除されかねない」と述べ、この大衆心理の圧制的側面を批判している。つまり大衆の台頭により、かえって画一的で寛容さに欠ける社会風潮が広がるという逆説的な問題が生じるのである。
エリートと大衆の対立構造
オルテガは社会をエリート(少数者)と大衆(多数者)の二層構造で捉えている。ただしここで言うエリートとは単に富裕層や貴族階級を指すのではなく、「自らに高い責任と理想を課す人々」を意味する。同様に大衆も経済的階級ではなく、「凡庸で自己改善を求めない人々」を意味する。したがってエリートか大衆かは各人の精神のあり方によって決まる概念である。オルテガは「大衆人はどの社会階層の出身であってもよい」と述べ、現代では教養ある専門家でさえ精神的には大衆人たりうると指摘する。例えば大学教育を受けた技術者でも、狭い専門知識に安住し他の知的関心を持たないなら、それは自己満足的な大衆人に他ならないというわけだ。
近代以前の社会では、大衆(多数者)は少数のエリートに自然と従い、その指導のもとで安定が保たれていた。オルテガも「健全な社会では大多数は選ばれた少数者の統治を受け入れる」と述べている。ところが現代では、大衆がエリートの権威を認めず自ら前面に出ることで、両者の関係が逆転・対立している。オルテガはこの状態を「超民主主義」とも呼び、大衆がエリートを排して自分たちだけで社会を動かそうとする風潮だと批判した。彼によれば、少数の優秀者が責任を持って社会を牽引するのではなく、多数者が好き勝手に振る舞うことで、本来必要な秩序や方向性が失われてしまったという。エリートたちは本来高い能力を持つがゆえに自らを平凡と感じ、より高みを目指すのに対し、大衆は凡庸でありながら自らを絶対視して他を見下すという倒錯が起きているとも指摘する。この倒錯により、優れたものがかえって抑圧され、平凡さが幅を利かせる社会——それがオルテガの言う「大衆の反逆」が生み出した対立構造である。
エリートと大衆の対立は文化面にも現れる。少数者が高度な芸術や思想を追求すると大衆はそれを「理解できないもの」として拒絶し、逆に大衆的な娯楽や単純なイデオロギーが社会全体を覆う。オルテガは別の著作『芸術の非人間化』でも同様の論点を展開し、20世紀前半の前衛芸術が難解化したのは、大衆には理解できないものをあえて作ることで芸術の真価を守ろうとするエリート側の防衛反応だと論じている。つまりエリートと大衆の対立は、政治だけでなく文化の領域でも少数の洗練vs多数の平凡という図式で表れている。
文化・知識・政治への影響
大衆の台頭は文化・知識・政治の各領域に大きな影響を及ぼす。まず文化面では、大衆文化(マスカルチャー)の興隆が挙げられる。オルテガは、高度に商業化・大衆化した娯楽が幅を利かせる一方で、古典的教養や高度な芸術が軽んじられる傾向を憂慮した。彼の見るところ、大衆人は難解な芸術や思想を敬遠し、即座に理解でき快感を得られるもの(軽音楽やハリウッド映画的娯楽)に群がる。これにより文化の水準が全体として下がり、かつて少数の支持者によって支えられていた高尚な文化は孤立を深める。20世紀初頭はまさに映画やラジオといったマスメディアが出現し、大衆向け娯楽が産業化した時代であり、オルテガの懸念は同時代のフランクフルト学派(アドルノやホルクハイマー)らの大衆文化批判とも共通する点があったといえる。
知識面では、前述した「専門化の野蛮」が問題となる。大衆化した社会では高等教育も普及し、専門家・技術者の数が飛躍的に増えた。しかしオルテガによれば、その多くは自らの専門知以外には無関心な「教養なき専門人」であり、真の意味での知性や判断力を備えていない。こうした人々が科学技術や行政の各分野で権威を握ると、狭量で全体像を欠いた意思決定がなされる危険がある。実際、彼の生きた時代には大量生産の技術者や官僚が台頭しつつあり、合理性の追求の裏で人間性が損なわれるとの批判が各方面から出ていた。「知識の量的拡大と質的浅薄化」というパラドックスこそが、オルテガの見る大衆時代の知の問題だった。
政治への影響は特に深刻であり、民主主義の質的変容として現れる。オルテガは大衆支配の時代の民主主義を「超民主主義」と呼び、それは真の意味での民主政治ではなく、ポピュリズム的な衆愚政治へ傾く可能性をはらむとした。大衆人は自らの欲望充足を最優先するため、長期的視野や抑制を欠いた政治要求を次々と繰り出す。その典型がファシズムや共産主義といった全体主義運動である。オルテガはファシズムや無政府主義的労働運動の隆盛を、大衆が伝統的権威や法的手続きを飛び越えて直接行動で社会を変えようとした結果だと見ていた。彼はファシストや過激派の「理なき権利」の主張(自分が正しいか否かは問題とせず、力で自分の意見を通す態度)に強い警戒を示し、それが民主主義を内部から破壊すると論じる。さらに、一見穏当な議会制民主主義であっても、大衆化が進めば人気取りの政治家が横行し、浅薄なプロパガンダが幅を利かせて熟議は形骸化する恐れがある。
もう一つの政治的影響は、前章要約でも述べた国家権力の膨張である。大衆は自己責任や自治の精神に欠けるため、問題が起こればすぐに国家に頼ろうとする。その結果、国家が肥大化し個人の自由が脅かされる。オルテガは20世紀の全体主義国家(ナチズム・共産主義)の出現をまさに大衆化の帰結と捉えた。つまり、自由な個人を育んできたリベラルな伝統が大衆によって否定され、強い国家による統制へと振り子が逆戻りする危険である。この洞察は、のちの冷戦期に実際に東西で巨大国家が個人を画一支配したことを思えば、時代を先見する鋭さを持っていたと言えよう。
『大衆の反逆』には個人と社会の関係性についての一貫した問題意識が流れている。それはすなわち、行き過ぎた個人主義と行き過ぎた集団主義の両極をいかに調和させるか、という問いである。オルテガの批判する「大衆人」は一見すると集団への埋没(全体主義)的に見えるが、同時に「無制限な個人の増長」という側面も持つ点が特徴的だ。大衆人は伝統的権威や他者への敬意を欠き、「自分がやりたいことをやるのが自由だ」と考えるため、一種の肥大化した個人主義の体現でもある。その結果、社会秩序や公共善といった集団的価値を軽視し、自分勝手な要求を通そうとする。これは社会全体から見れば調和を乱す行動であり、最終的には強権的な国家など大きな集団的力で抑え込まれるという皮肉な帰結に至る(個人主義の行き過ぎが全体主義を招く)。
オルテガ自身は決して個人を否定して全体に服従せよと言っているのではない。むしろ彼は、真に尊重すべきは高度に自立した個人(エリート的人格)であり、そのような個人こそが文明を前進させると考える。しかし同時に、そのエリート個人でさえ社会的責任や使命感を帯びて行動しなければならないと説く。彼の理想は、各人が自らを高めつつ公共心を持って社会に貢献することで、多数者と少数者が協調し合う社会秩序である。これは「個人主義と集団主義のバランス」と言い換えられる。
具体的には、個人レベルでは「権利と義務のバランス」が重要だとされる。前述のように大衆人は権利ばかり主張し義務を軽んじるが、健全な社会では自由な個人であるほど自ら義務を引き受けるべきだ。また集団レベルでは、社会は選ばれた少数者のリーダーシップと大多数の支持・協力によって成り立つ。オルテガはそれを歴史的に当然の姿と考えており、「支配するか従うか」という二者択一は社会の本質であるが、従うとは単なる服従ではなくリーダーへの尊敬と連帯であると述べている。大多数が有能な少数者の指導を信頼し受け入れることで、社会の安定と進歩がもたらされるという思想である。
したがって、オルテガにとって望ましいのは極端な個人主義でも極端な集団主義でもない。自律的な個人が互いに尊重し合い、しかも優れたビジョンを持つ指導者層が全体を導くという有機的な統合である。個の尊重(自由)と全体への責任(規律)の調和こそが、彼が『大衆の反逆』で提示する処方箋といえる。彼は「人々がいかなる規範にも従わないなら、結局は『すべての道徳を否定する』という規範に服することになる」と警告し、無制限な個人主義は逆に個人の尊厳を失わせると主張した。この言葉に、自由と秩序のバランスを重視するオルテガの思想が端的に表れている。
哲学的・歴史的背景
オルテガ・イ・ガセットの思想的背景(実存主義やニーチェの影響など)
ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)の思想は、20世紀前半の欧州哲学潮流と深く関わっている。しばしば実存主義の先駆とも評され、実際『大衆の反逆』にも人間の在り方や自己決定の重要性についての洞察がみられる。彼の有名なモットーに「Yo soy yo y mi circunstancia(私とは私と私の環境である)」という言葉がある。これは人間存在を主観(自分)と客観(環境)の相互規定として捉える考え方で、のちの実存主義者が強調する「状況の中の人間」に通じる発想だ。オルテガ自身は厳密には実存主義者ではなく、彼の哲学は「生の理性主義(ラシオヴァイタリズム)」と呼ばれる独自のものである。これは理性と生命(生の現実)を統合して捉え、人間の生きる現実を出発点に哲学する立場である。
オルテガに影響を与えた思想家としては、フリードリヒ・ニーチェの名がよく挙げられる。ニーチェは19世紀に「ルサンチマン(怨恨)を抱えた奴隷道徳の凡人たち」と「力強い主人道徳の超人」という対比を描き、近代の平等主義を批判した哲学者である。オルテガのエリートと大衆の二分法には、このニーチェ的な価値の高低観が響いている。ただしオルテガ自身は、ニーチェのような極端な権力意志礼賛ではなく、もっと教養主義的・倫理的なエリート観を持っていた。実際、彼の少数者と多数者の区別はニーチェの「主人と奴隷」より道徳的ニュアンスが薄く、能力や自己鍛錬の程度に基づくものとなっている。
他にも、オルテガはドイツ哲学から大きな影響を受けている。青年期にドイツ留学を経験しており、新カント派(マールブルク学派)の影響で厳密な哲学的方法論を学び、さらにエドムント・フッサールの現象学にも関心を示した。このため彼の文章は平易だが哲学的には精緻で、具体例から本質を抽出するスタイルには現象学的思考法が垣間見える。また、同時代のスペインの思想家ミゲル・デ・ウナムーノや、フランスのアンリ・ベルクソン(生の哲学)などからも刺激を受けている。特にベルクソン的な「生命の躍動」に対する関心は、オルテガのラシオヴァイタリズムにつながる。さらに、歴史哲学にも造詣が深く、イギリスのコリングウッドなど歴史に哲学的意義を認める思想家とも響き合うところがあった。
総じてオルテガの思想的背景には、近代ヨーロッパの危機に対する問題意識があった。ニーチェの「神の死」やキルケゴールの不安、あるいは実存主義的な「世界の不条理」といったテーマが彼の時代の知的空気を形作っており、オルテガもその中で「近代文明をいかに再建するか」を模索した一人だったと言える。『大衆の反逆』はその問題意識を政治・社会批評の形で表現した著作であり、底流には彼の哲学的人間観が流れている。
執筆当時の歴史的・社会的状況(20世紀初頭のヨーロッパとスペイン)
『大衆の反逆』が書かれたのは1929年(新聞連載)、単行本として出版された1930年であり、これは第一次世界大戦後から第二次世界大戦前夜にあたる時期である。ヨーロッパ全体を見ると、戦間期の不安定な時代であり、社会的にもイデオロギー的にも混乱が極まっていた。具体的には、世界大戦とロシア革命(1917年)の衝撃で古い帝国秩序が崩壊し、ドイツや東欧には多くの小国が乱立、経済は不況とインフレに苦しみ、人々の不満が高まっていた。1929年には世界恐慌が起こり、それに先立つ1922年にはイタリアでムッソリーニ率いるファシズム政権が成立している。ドイツでもまさに1930年前後にナチ党(ヒトラー)が台頭を始め、議会政治が揺らいでいた。一方、ソビエト連邦ではスターリンの下で社会主義体制が強化され、資本主義陣営との緊張が高まっていた。つまり左右両極の全体主義が台頭し、自由主義・民主主義が危機に瀕していたのである。
スペイン国内の事情もまた激動期にあった。1920年代のスペインはミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権下(1923-1930)にあり、政治的抑圧と近代化政策が入り交じる状況だった。オルテガはこの独裁には批判的だったが、一方で伝統的な王政や社会の停滞にも不満を抱いていた知識人であった。1930年にプリモ・デ・リベラが失脚するとスペインでは王政が倒れ、1931年に第二共和政が成立する。しかし共和政下の政治は不安定で、急進的改革と右派の反動がせめぎ合い、社会混乱が続いた末に1936年に内戦が勃発、フランコの独裁へとつながっていく。つまりオルテガ執筆当時のスペインは、王政から共和政への転換期という政治的カオスの只中にあったと言える。
オルテガが『大衆の反逆』で描いた危機的状況は、まさにこうした20世紀前半の歴史的現実とシンクロしている。彼が懸念した大衆の無秩序な力は、ファシズムやボリシェヴィズムといった具体的運動として現れ、伝統的秩序を破壊しつつあった。また、彼が指摘した国家主義の危険も、ナチス・ドイツやソ連のような全体主義国家の出現で現実のものとなりつつあった。オルテガ自身、1930年前後にはスペインの共和主義的改革を支持しつつもその混乱に失望し、1936年以降は内戦に嫌気して国外(アルゼンチンなど)に亡命するなど、歴史の波に翻弄された人物である。
もう一つ特筆すべき背景は、大衆消費社会の幕開けである。1920年代は「狂騒の20年代」と呼ばれ、自動車・ラジオ・映画など新技術の普及で大衆消費文化が花開いた時代だった。ジャズエイジやハリウッド映画の黄金時代に象徴されるように、従来エリートのものだった文化が商品化され、誰もが享受できる大衆文化となった。オルテガの目には、これが伝統的価値観の崩壊と享楽的な大衆社会の興隆として映った。彼が述べた「歴史的水準の上昇」や「生命の増大」は、この技術進歩と消費文化の発展を背景にしている。
まとめると、『大衆の反逆』は戦間期ヨーロッパとスペインの政治的混迷、イデオロギー闘争、そして新たな大衆消費社会の出現という歴史的背景の中で執筆された。オルテガの論点は決して抽象的な空想ではなく、同時代の現実への鋭い危機感に裏打ちされている。この背景を理解することで、彼の大衆批判が単なるエリートの愚痴ではなく、当時として切実な文明論の提起であったことが分かる。
現代社会との関連
現代のポピュリズムとSNS時代の大衆文化
『大衆の反逆』で論じられたテーマは、約1世紀を経た現代社会においても多くの示唆を提供している。21世紀の今日、我々はポピュリズムの台頭やインターネット・SNS時代の大衆文化という現象に直面しているが、それらはオルテガが描いた大衆社会の特徴としばしば重なる。例えば、近年各国で支持を集めたポピュリスト政治家たちは、反エリート・反知性主義的な言説で「普通の人々の声」を代弁すると称して台頭した。これはまさに大衆人がエリートを排斥して自ら政治を動かそうとする動きであり、オルテガの懸念した「超民主主義」の様相を帯びている。ポピュリズム政治では、専門家の知見や少数意見が軽視され、大多数の直感的な意見が優先されがちだ。ブレグジット(英国のEU離脱)やアメリカのトランプ現象などは、一部で「有権者の反乱」と形容されたが、これは裏を返せばエリートへの不信と大衆的欲求の爆発とも言える。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やYouTubeなどの普及は、さらに大衆の声に直接力を与えるメディア環境を作り出した。誰もが情報を発信できるこの時代には、かつて少数の専門家やジャーナリストが担っていた言論空間が大衆に開放されたと言える。一見すると民主化が進んだようにも思えるが、オルテガ的視点から見ると「あらゆることに干渉する大衆人」が極限まで押し進んだとも取れる。SNS上では多くの場合、感情的な意見や陰謀論が科学的知見や深い分析よりも拡散しやすい。専門家が「これが事実だ」と説明しても、大衆がそれを気に入らなければフェイクニュース呼ばわりして拒絶する、といった現象もしばしば見られる。現代のデジタル社会において、人々は自分の信じたいものだけを信じ、都合の悪い事実には耳を貸さない傾向が指摘されており、これはオルテガが批判した大衆人の知的怠惰や傲慢と共通する。
実際、「誰もが専門家を気取るSNS時代」として、コメンテーターのジョー・ローガンや心理学者のジョーダン・ピーターソンが科学者に代わって気候変動や疫学を語り、俳優が憲法学者のように政治を論じるといった事例もある。ある論者は、ソーシャルメディアによって生まれたこの新たな風潮を“vulgaristocracy”(粗野者階級の支配)と呼んでいる。これはオルテガの言う大衆人がネットを介して権力(影響力)を持った状態とも言えよう。結果として、事実と意見の区別が曖昧になり、専門知や優れた文化が軽んじられる傾向が強まっている。
さらに現代の大衆文化は、オルテガの時代以上に日常生活を覆っている。テレビのリアリティ番組やSNSのバズ文化、バイラル・ミームなど、大量の娯楽と情報が氾濫する社会では、人々の注意は刹那的な刺激に奪われがちである。オルテガは大量の娯楽が注意力と教養を削ぐことを懸念していたが、現代はまさにその懸念が現実化した面もある。加えてアルゴリズムによるフィルターバブルが個々人を自分好みの情報だけに囲い込むため、異質な考えに触れる機会が減り、結果として大衆の同質化と極端化が進むという分析もある。これは「みなと違う者を排除する大衆の圧力」がデジタル空間で強化されているとも言える。
もっとも、現代の状況はオルテガの予想をいくぶん超えている部分もある。例えばSNSでは草の根の監視によって権力者の腐敗が暴かれるなど、必ずしも大衆が常に誤った方向に向かうとは限らないとの評価も可能だ。オルテガの時代には存在しなかった技術要因が絡むため、一概に同列比較はできない。しかしポピュリズムやポスト真実の風潮に危機感を覚える論者は、「今こそオルテガの指摘に学ぶべきだ」と主張する。実際2010年代以降、オルテガ『大衆の反逆』を引用して現代の民主主義を論じる記事が欧米で散見された。それだけ現在の情勢が彼の描いた大衆社会像と響き合っているということだろう。
民主主義の危機とエリート主義の再評価
現代社会では、民主主義そのもののあり方が問い直される局面に来ている。情報化とグローバル化による社会の複雑化、そして先述のポピュリズムの台頭により、「このまま大衆迎合的な政治が続けば民主主義が自壊するのではないか」という懸念が出てきたためだ。例えば各国で見られる民主主義の機能不全(議会の分断、ポピュリストの権威主義化、選挙プロセスへの不信など)は、オルテガが警告した「大衆による文明の自己破壊」の予兆とも解釈できる。実際、彼の懸念したように多くの国で専門知や制度への信頼低下が進み、「自分たちの直感こそ真実」という態度が広がっている。その結果、科学的事実に基づく政策よりも、大衆の感情を優先する政策が支持され、気候変動対応の遅れやパンデミック対策の混乱などの形で弊害が現れていると指摘される。
こうした中、一部ではエリート主義の再評価も始まっている。ここで言うエリート主義とは、選良が権威に基づいて統治するという古い意味ではなく、知的・専門的エリートの役割を重視する姿勢である。例えば「専門家の助言を尊重しよう」「ポピュリズムではなくテクノクラシー(専門家による統治)的手法も検討すべきだ」といった議論がある。EUなどでは「市民の声」と「専門家の提言」を組み合わせた民主主義のモデル(熟議民主主義など)も模索されている。オルテガが主張した「教養ある少数者による社会の指導」は、現在のリベラル民主主義の文脈では公然とは唱えにくいものの、そのエッセンスは「エビデンスに基づく政策決定」や「官僚機構の専門性確保」などに反映されていると言える。
一方で、エリート主義の提唱には反発や懐疑も伴う。歴史的に見て、知識人や技術官僚が独善に陥り失敗した例(例えば金融エリートの暴走が招いた2008年のリーマン危機など)もあり、大衆がエリートに不信感を抱くのにも理由があるからだ。オルテガ自身も、生涯において自分の思想が誤解されたり政治的に悪用された経験をしている。例えばスペインのファランヘ党(フランコ時代のファシズム政党)はオルテガの思想をねじ曲げて利用したし、左派からは反動的だと批判された。つまりエリートが「自分たちが導くべきだ」と主張するとき、それはエリートの自己正当化や既得権益の擁護と紙一重の危うさがある。
とはいえ、現代の高度に専門化した課題(環境問題、パンデミック対応、AI規制など)は、専門知なしに正しく対処することは困難なのも事実である。ポピュリズム的な指導者が短期的な人気取りで専門家の声を無視した結果、問題が悪化した例も見られる。そのため、「熟練した官僚や科学者、経験豊富な政治家といった選抜された人材による意思決定を尊重すべきだ」という議論は説得力を増している。これはオルテガの望んだ「選ばれた少数者」の復権とも重なっている。
要するに、現代の民主主義は大衆の声の尊重とエリートの専門性というジレンマに直面しており、そのバランスをどう取るかが課題となっている。オルテガの提起した問題は、形を変えつつ21世紀にも続いていると言える。彼の思想そのものに直接解決策があるわけではないが、「多数者による質の低下」と「少数者の独善」という両極の危険を早くから指摘していた点で、現代の我々が再考すべき教訓を提供している。
批判的視点
『大衆の反逆』への批判とその限界
『大衆の反逆』は発表当時から現在まで、賛否両論を招いてきた。特に大衆批判の偏見については多くの議論がある。主な批判としては、「オルテガの議論はエリート主義的で反民主的すぎるのではないか」「大衆を一括りに卑下するのは偏見ではないか」という点が指摘される。
第一に、オルテガが描く大衆像は一面的で過度に否定的だという批判がある。彼は大衆を「凡庸で怠惰で文化を破壊する存在」として描くが、現実の大衆(庶民)はそこまで愚かでも無責任でもないという反論である。多くの一般人は日々の仕事や家族を支え、社会を実直に維持しているのであって、一概に文明の寄生者のように言うのは公平さを欠く。オルテガの論調には、知識人としての高みからの見下ろしが感じられ、その点に反発を覚える読者もいる。特に民主主義的価値観が浸透した戦後社会では、「民衆蔑視」のように受け取られ敬遠される傾向があった。
第二に、オルテガの議論は社会構造や経済条件への分析を欠いているとの批判もある。彼は主に文化的・精神的側面から大衆現象を論じ、あたかも大衆の性質が自発的に湧き出てきたかのように描く。しかし社会学的に見ると、大衆化には資本主義の発展、メディアの商業化、教育制度の普及、不平等の変容など様々な構造要因が絡んでいる。オルテガはそうしたマクロ要因の分析を深めず、「大衆人の心理」に焦点を当てすぎているきらいがある。そのため、「原因を飛ばして結果だけ(大衆の愚かさ)を嘆いている」との指摘もある。例えば大衆の教育不足や流行消費への傾斜は、単に彼らが怠惰だからでなく、教育機会の格差や産業側の働きかけといった背景があるはずだが、オルテガはそうした面には踏み込んでいない。
第三に、オルテガのエリート擁護も理想化されすぎとの批判がある。彼はエリート(少数者)を文化と文明の担い手として肯定的に描くが、実際のエリートが常に有能で高潔とは限らない。現実にはエリート層にも腐敗や無能、視野狭窄が存在し、むしろ彼らが誤った方向に社会を導いた例も歴史には多い。にもかかわらずオルテガは大衆の欠点を列挙する一方で、エリートの欠点については相対的に甘く、エリートへの信頼がやや一方的に高いように見える。このバランスの悪さも批判者には問題視される。要は、「大衆 vs エリート」という対立図式自体がステレオタイプであり、現実の社会問題はそんな単純に二元論化できないという指摘である。
オルテガの大衆論は、イデオロギー的には保守反動から進歩的警鐘まで様々に解釈されてきた。その振れ幅自体が、彼の議論が曖昧さを含んでいる証左とも言える。極右勢力は「大衆に代わって我々エリートが導くべき」と都合よく利用し得るし、逆にリベラル派は「大衆を愚民扱いするとは何事か」と批判する。実際、スペインではファシストも社会主義者も彼の言葉を自陣営に引き寄せて論争した経緯がある。
以上のような限界・偏見はあるものの、『大衆の反逆』が提起したテーマが無価値になるわけではない。むしろその偏った視座ゆえに見えてくる真実もある。オルテガは意図的に極端なコントラストを描くことで、近代社会の変質に警鐘を鳴らした。その誇張には戦略があり、我々はそのエッセンス——つまり「文明の担い手不在」という危機意識——を汲み取りつつ、同時に彼の限界も踏まえて現代的に発展させる必要があるだろう。
社会学的視点からの関連(マックス・ウェーバーやピエール・ブルデューの理論との比較)
※ここから下は間違ってるかも
オルテガの『大衆の反逆』で論じられた現象は、社会学の文脈でも議論されてきた。ここではマックス・ウェーバーとピエール・ブルデューという二人の社会学者の視点から、その関連性を簡潔に述べる。
マックス・ウェーバー(1864-1920)はオルテガと同時代のドイツ社会学者で、近代社会の特質を分析した。ウェーバーは合理化と官僚制の発達を近代の本質として捉え、「鉄の檻」による個人の拘束を懸念した。これはオルテガが憂慮した「巨大化する国家による個人の支配」と通じるものがある。ウェーバーによれば、近代の官僚制社会では、人々は形式的平等の下で歯車のように扱われ、画一化・非人格化が進む。これはオルテガの言う大衆社会の一面——均質で凡庸な人間の大量生産——に対応する。またウェーバーはカリスマ的支配に注目し、近代の大衆民主主義ではカリスマ的リーダーが大衆の支持を集め独裁化する危険を指摘した。これはオルテガが経験したヒトラーやムッソリーニの現象と一致し、大衆がカリスマに熱狂して理性を失うプロセスを社会学的に説明している。ウェーバーにとって、こうした大衆政治の危うさを克服するには職業政治家による責任ある指導(少数エリートの役割)が重要であった。彼は著書『職業としての政治』で、衆愚政治に陥らないためには情熱と判断力を持つ政治エリート層が不可欠だと説いている。これはオルテガのエリート論と共通する見解である。
もっともウェーバーは、オルテガほど大衆の性向を道徳的に批判はしなかった。彼はより構造的・価値中立的に近代の趨勢を分析し、その上でエリートの役割を論じた。一方オルテガは主観的立場から大衆人を批判的に描写した。この違いはあるが、「近代社会における大衆支配の危険とエリートの責務」という点では両者の認識は接近していると言えよう。
ピエール・ブルデュー(1930-2002)はフランスの社会学者で、特に文化と権力の関係を分析した。ブルデューの理論で注目すべきは「文化資本」と「ハビトゥス」の概念である。彼は社会階級による文化的趣味の差異を調査し、エリート層は高尚な文化(高文化)を嗜好し、大衆層は大衆文化を嗜好する傾向があることを示した。そしてこの差異は単なる自由選択ではなく、生育環境で身につく無意識の志向(ハビトゥス)によって形成されるとした。この視点から見ると、オルテガが嘆いた大衆の文化的浅薄さやエリートとのギャップは、単に近代になって突然現れた現象ではなく、常に存在した階級的文化差の延長とも考えられる。ブルデューはエリートの趣味嗜好を分析し、それが支配階級の正当化(区別化)手段になっていることを明らかにしたが、これはオルテガ自身の思想にも当てはまるかもしれない。すなわち、オルテガが「高尚な文化」を担う少数者を擁護し「低俗な文化」に浸る大衆を非難する構図は、一面ではエリートの文化的趣味を正当化し大衆の趣味を貶めるディスクールと捉えることもできる。ブルデュー的に言えば、オルテガは自ら属する知識人階級の視点から「大衆/エリート」という図式を語っており、それは支配集団の主観が混入した記述だという批判も可能である。
しかしブルデュー自身も大衆文化を手放しで賞賛していたわけではない。彼はむしろ大衆文化の中にも趣味の操作や受動性を見て取り、そこに批判的だった(例えばテレビが思考を浅薄にする危険を論じた)。この点、オルテガの大衆文化批判とは不思議な共通点を持つ。興味深いのは、ブルデューが提示した解決策はオルテガと異なり「教育による文化資本の再分配」であったことだ。ブルデューは不平等を是正するために、より多くの人に高度文化へのアクセスを与えるべきだと考えた。一方オルテガは、大衆すべてをエリート化するのは不可能と考え、エリートが導く社会を構想した。この違いは、前者が社会学者らしく構造改革を重視し、後者が哲学者らしく人間類型の区別に重きを置いたためだろう。
最後に、社会学的視点としてフランクフルト学派にも触れておく。マルクス主義寄りの彼ら(ホルクハイマーやアドルノなど)は、オルテガとは思想的立場は異なるが、大衆社会による文化の画一化や権威主義的性格に警鐘を鳴らした点で共通する。例えばアドルノは大衆文化産業が人々を受動的で従順な「画一人間」にすると批判したし、エーリヒ・フロムは自由から逃走して権威に服従したがる大衆心理を分析した。これらはオルテガの大衆人像と重なる部分が多い。違いは、彼らは資本主義や商品生産といった社会経済的メカニズムを重視したのに対し、オルテガはそうした分析をあまりしなかった点である。社会学的にはそのメカニズムをこそ解明すべきで、単なる嘆きでは不十分だということになる。
まとめれば、オルテガの『大衆の反逆』で提示された問題意識は、多くの社会学者にも共有された普遍的テーマである。ウェーバーは構造と支配類型の分析を通じて、ブルデューは文化と階級の分析を通じて、オルテガと響き合う洞察を示した。それぞれアプローチは異なるものの、近代における大衆の力とその影響という核心への関心は共通していると言えるだろう。社会学的視点を加味することで、オルテガの議論の偏りを補正しつつ、その提起した課題をより包括的に理解できる。すなわち、大衆の台頭は単なる精神風土の問題ではなく、社会構造や文化資本の問題でもあるということである。こうした複眼的理解により、我々は依然として続く「大衆の時代」を冷静に捉え、向き合っていくことが求められている。
『孤独な群衆』はどんな本か
『孤独な群衆』(上・下)D・リースマン, みすず書房, 加藤秀俊, 2013
上記書籍を読んだり調べたりしたので、多分な妄想を大量に含みながら、勝手きままに説明・解説。
1. 概要
デイヴィッド・リースマン著『孤独な群衆』(The Lonely Crowd, 1950年)は、アメリカ社会の人間性格の変化を分析した社会学の古典的名著。
リースマンは、社会にはその社会に適合した「社会的性格」が存在し、社会の制度が個人にその社会にふさわしい性格を植え付けていくと指摘します。
本書では、人々の性格類型を歴史的に比較し、19世紀アメリカを支配した性格類型が20世紀には全く異なる類型へと置き換わった経緯と背景を探っています。
社会的性格の3類型として、リースマンは以下の類型を提唱しました。
伝統指向型(Tradition-directed)
社会が長年受け継いできた伝統や慣習によって人々の行動規範が定まり、恥(恥辱への恐れ)を動機に行動します 。前近代的・共同体的社会に多く、過去の世代から規則を忠実に守るタイプです。
内部指向型(Inner-directed)
幼少期に両親や権威者から刷り込まれた道徳律(内部の良心)に従って行動し、罪悪感(良心の呵責)によって動機付けられます 。産業化期以降に登場し、幼児期に植え付けられた価値観を「心理的ジャイロスコープ」のような内なる羅針盤として生きる自己確信的(時に硬直的な)タイプです。
他人指向型(Other-directed)
絶対的な規範よりも、周囲の人々やマスメディアを通じて知る「他人」の動向に敏感に注意を払い、それに同調・参加しようとします 。恥や罪ではなく漠然とした不安によって動機付けられ 、常に他者からの承認を求める柔軟な適応型です 。大量生産・大量消費の現代社会に台頭した類型で、「愛されること」を望み「同調しているという安心感」を求めるのが特徴です。
リースマンによれば、社会の人口動態や経済構造の変化に応じて、これら3つの性格類型のうちどれが社会の主流になるかが変遷してきたといいます。
例えば、人口増加が著しい伝統社会では伝統指向型が支配的ですが、産業化が進む過渡期には内部指向型が台頭し、人口成長が安定・減退に向かう現代大衆社会では他人指向型が主流になる、という歴史的仮説です。
事実、20世紀中頃のアメリカ新中間層は急速に他人指向型へ移行しつつあり、その結果、人々は大勢の中にいながら孤独感を抱える「孤独な群衆」と化していると論じられます。
本書のテーマは、このような社会と個人の関係性を明らかにし、現代社会における個人の自由や自律の可能性を問い直すことにあります。
2. 背景と理論の枠組み
『孤独な群衆』は、戦後アメリカ社会を背景に個人の性格形成と社会構造との相互作用を考察した作品です。
リースマンは、社会が円滑に機能するためには社会成員がその社会に見合った性格を持つことが重要だと述べつつ、そうした社会的性格は個人由来ではなく社会環境によって形づくられると考えました。
つまり、人々の性格傾向は時代や社会の状況に応じて変化し、社会の主要な価値観や必要とされる行動様式に合わせて培われるという視点です。
この観点からリースマンは、アメリカの新中間階級を主な対象に、伝統指向型・内部指向型・他人指向型という類型論を通じて近代から現代への社会的性格の歴史的転換を分析しました。
社会学的に見ると、リースマンの主張はエミール・デュルケームのアノミー概念(急激な社会変動による規範喪失)やエーリッヒ・フロムの社会的性格論などと通じるものがあります。
彼は特に人口動態(人口の高成長・過渡的成長・減退期)を指標として社会構造の変化を捉え、それに対応して支配的な性格類型が伝統→内部→他人へと移り変わると論じました。
この理論的枠組みは、前近代から近代、さらには大量消費社会への発展というマクロな社会進化と、ミクロな個人の性格形成とを結びつける試みと言えます。
リースマンの洞察の一つは、各性格類型ごとに人々の動機づけや社会統制のメカニズムが異なる点です。
ただ述べたように、伝統指向型社会では人々は「恥」によって行動を律し、共同体の掟から外れることを恐れます。内部指向型社会では内面化された道徳(良心)が行動を導き、「罪の意識」による自己制御が働きます。
そして他人指向型社会では明確な規範は相対化され、人々は身近な他者や世論・流行に目を配りながら漠然とした不安(周囲から取り残されたり場違いになる不安)に突き動かされるとしました。
この分析は、アメリカ社会が20世紀半ばに直面していた大衆化・世論化の実態を言い当てたものです。実際、リースマンは他人指向型人間を「他者から愛されようと努める人」と特徴づけ、現代の組織はこうした協調的な人格を好むと述べています。
本書の第1部では、家族、仲間集団、マスメディアなど性格形成の担い手(エージェント)に着目し、これらが伝統指向から他人指向へ移行する中でどのように変化したか詳細に検討されています。
例えば、伝統社会では家族と共同体の慣習が子供の性格を規定しましたが、内部指向の時代には両親による厳格なしつけと教師の道徳教育が重視され、他人指向の時代になると親も教師も子供の自主性や友人関係に配慮しつつ「納得づく(合理的説得)のルール」で育てようとする傾向が強まります。
また仲間からの評価やマスメディアの影響が現代では大きな性格形成要因となっており、若者は仲間内の噂話や流行(「みんなのうわさ」)によって好みや行動を社会化されていきます。
リースマンはこうした分析を通じて、産業社会の特徴として他人指向型性格が成立した背景を、家族・同輩集団・メディアとの関係から考察しています。
さらにリースマンは、性格類型の変化が消費行動や政治行動にも表れると指摘しました。
例えば、他人指向型の人々は消費において純粋な実用よりも「他人志向」、つまり他者からどう見られるかを意識した消費傾向を示すようになります。
流行のファッションやブランド品を追う行動はその典型例と言えるでしょう。また政治の領域でも、指導者が他人指向型の性格を反映するようになると、政治自体がマスメディアを通じた「消費行動の場」と化すと論じています。
つまり、有権者は政策そのものより候補者のイメージやパフォーマンスに影響され、政治家も世論の動向を見ながら「演出」する傾向が強まるという指摘です。
第2部「政治」で展開される、無関心派・道徳派・内幕派といった政治スタイルの分析は、まさにこの文脈で大衆社会における政治参加の変容を捉えました。
最終部となる第3部「自律性」では、こうした他人指向型社会の中で個人が自律性(autonomy)を確立できるかという問題が探究されます。
リースマン自身、本書を通じて一貫して個人の自律という価値を擁護しており、盲目的に「群衆」に迎合する他人指向でも、過去の価値に固執する内部指向でもない、「自分自身の道を進む」ことへのコミットメントこそ望ましいと述べています。
他人指向的な大衆社会では個人の自主性や主体性が損なわれやすく、強いリーダーシップや自己認識、人間的潜在能力が十分発揮されにくいとリースマンは懸念を示しました。
しかし同時に、そうした社会の中でもアノミー(社会的逸脱)に陥るのではなく主体的に生きる「自主的人間」の可能性を探り、彼らが活躍できる社会の条件を模索しています。
総じて『孤独な群衆』は、当時の大量生産・大量消費社会における同調と孤独のパラドックスを抉り出した書物です。専門家以外の一般読者にも読みやすい筆致で書かれ、発表当時から大きな反響を呼びました。その影響は社会学のみならず広範な分野に及び、20世紀を代表する書物の一つに数えられています。
現代でも、SNS時代の「他人指向的」行動(他者の評価を過度に気にする風潮)を考える際に、本書の分析は示唆的であると再評価されています。
半世紀以上経ても色褪せない洞察を持つ本書は、個人と社会の関係性を理解する上で今なお必読の一冊と言えるでしょう。
3. 章ごとの内容の詳細
以下では、『孤独な群衆』の各章ごとの内容について、章タイトル(日本語題と原著英語題)を示しつつ要点を整理します。
特に社会的性格の3類型(伝統指向型・内部指向型・他人指向型)に関する議論がどの章でどのように展開されているかに注目してまとめます。
第1章 「性格と社会のいくつかのかたち」 (Some Types of Character and Society)
第1章は本書の基盤となる概念整理の章であり、社会的性格の3類型(伝統指向・内部指向・他人指向)が提示・定義されています。リースマンはまず「性格と社会」の一般論から説き起こし、社会がその成員に期待する性格の類型化を試みます。
具体的には、社会の人口推移による段階区分になぞらえて以下のように説明されます。
人口の「潜在的高度成長期」に対応する伝統指向型
「過去の世代が定めた方向に沿って動く文化」であり、長く続いた慣習に人々が従うタイプです。
中世ヨーロッパの大多数や、非西洋社会(ヒンドゥー教徒やホピ族、ズールー族、中国人、アラブ人など多様な文化)にも共通する普遍的な特徴として例示されています。
彼らは遠い昔に確立した規則を守り、急速に変化する近代社会では適応が難しい場合もあるとされます 。
人口の「過渡的成長期」に対応する内部指向型
近代産業社会の台頭とともに登場した性格類型で、幼少期に内部に植え付けられた価値基準(心理的ジャイロスコープ)に従って生きる人々です。
彼らは既存の規範ではなく自らの内なる確信に基づき行動し、大人になっても子供時代に学んだ教えを指針とします。
自信にあふれた行動力を持つ一方で、場合によっては柔軟性に欠け頑なになりがちとも述べられます。
人口の「初期的減退期」に対応する他人指向型
豊かさを享受しはじめた現代に現れる類型で、他者(直接会う相手だけでなくメディアを通じ知る不特定多数)の動向を基準に自分の生き方を調整する人々です。
伝統や内面のモラルに縛られず可塑性が高く、他者からの承認を得るために自分を合わせ込む傾向があります。
リースマンは「他人指向型の人は尊敬されることより愛されることを望む」と述べ、組織社会ではこのタイプが好まれると指摘しています。
1940年代には既に他人指向型がアメリカ社会で優勢になり始め、この傾向は今後も強まると見通しました。
リースマンは上記3類型を比較し、各タイプの特徴を対比させています。
例えば動機づけの違い(伝統=恥、内部=罪悪感、他人=不安)や、行動規範の源泉(伝統=昔ながらの規則、内部=内面化された道徳、他人=周囲の人々の様子)といった点です。
加えて、歴史上のケーススタディとして「アテネの事例」を取り上げ、古代ギリシャの市民性を分析に用いています。
最後に「いくつかの注意点」として、類型論を適用する際の留意事項(類型は純粋なものではなく重なり合い得ること、過度な単純化への警告など)が付記されています。
総じて第1章は、本書全体の理論的枠組みを提示し、以降の章で展開する具体的分析の土台を据える役割です。
第2章 「道徳性(モラリティ)から意欲(モラール)へ——誰が性格形成をしてきたか」(From Morality to Morale: Changes in the Agents of Character Formation)
第2章では、性格形成の担い手の変遷に焦点を当て、特に家庭(親)と学校(教師)の役割の変化を詳述しています。
章題の「モラリティからモラールへ」は、価値観の中心が絶対的な道徳律(morality)から集団の士気や意欲(morale)へ移ったことを示唆しています。
まずI. 親たちの役割の変化では、親による子供の社会化の様式が時代とともに変わる様を描きます。伝統指向段階の親は、先祖代々の習慣に沿って子を育て、厳格に慣習を守らせます。
内部指向段階では、親は子供に道徳律と自制心を叩き込み、規律正しい人格形成(「性格形成を親の自覚的任務」にすること)に努めます。子供は親から強い価値観を刷り込まれ、これが成人後の行動原理となるのです。
しかし他人指向段階になると、この関係性に大きな変化が生じます。親は子供に一方的に価値観を押し付けるのではなく、むしろ親自身が子育てを通じて学び成長する側面が強まります。リースマンはこれを「子育て(Bringing Up Children)から『親育て(Bringing Up Father)』へ」という言葉で表現しています。
つまり、他人指向化した社会では子供中心の育児が広がり、親も専門家の助言本に学んだり子供の反応に合わせたりしながら、自らの在り方を調整していくのです。
しつけの方法も、旧来の権威主義的な命令ではなく「納得づく」のルール、すなわち子供を論理的に説得し理解させるアプローチへと転換します。
これらの変化は、従来型の親子関係が揺らぎ、子供が家庭内でより大きな発言力を持つようになったことを示唆します。
次にII. 教師の役割の変化では、学校教育の場での変化を扱います。
内部指向段階における教師は、知識と道徳を教え込む権威者として振る舞い、生徒に勤勉さや遵法精神を植え付ける存在でした。
しかし他人指向段階では、教師の役割も従来の権威者からファシリテーター(仲介者)的なものへ移行します。生徒の自主性を尊重し、社会での人間関係を円滑にするスキル(例えば協調性やプレゼンテーション能力)を育む教育が重視されるようになります。リースマンは教師について詳細に論じてはいませんが、暗に「内部指向型の教師」と「他人指向型の教師」の対比を示唆しています。
内部指向型の教師は生徒に規律と知識を刷り込むのに対し、他人指向型の教師は生徒同士のディスカッションや体験学習を通じて社会適応力を養おうとする、という違いが読み取れます。
要するに、第2章は家族と学校という社会化エージェントが伝統社会から現代社会にかけてどう変容したかを描き、他人指向型性格の成立に貢献した要因を探っています。
親子関係では権威と服従のモデルから対話と適応のモデルへ、教育現場では画一的訓育から個性尊重へとシフトしたことが示されており、これは現代人の価値観形成のバックボーンとして重要な指摘です。
こうした変化は、結果的に若者の性格に「恥」でも「罪」でもなく他者から浮くことへの不安を内面化させる土壌を作ったと考えられます。
第3章 「仲間たちの審判——誰が性格形成をしてきたか(つづき)」 (A Jury of Their Peers: Changes in the Agents of Character Formation (Continued))
第3章では、仲間集団(ピアグループ)が人間の性格形成に及ぼす影響の変化が論じられます。
タイトルの「仲間たちの審判(A Jury of Their Peers)」が示す通り、特に他人指向社会においては同輩(同世代)の仲間からの評価が人々の行動規範に大きく作用することが強調されています。
I. 内部指向段階での仲間たちでは、内部指向型の社会における仲間関係について検討しています。
内部指向型の人々にとっても友人や同僚の存在は重要ですが、彼らの基本的価値観は幼少期からの内面的な「ジャイロスコープ」によって方向付けられているため、仲間からの影響は限定的です。
他者からどう見られるかよりも、自分の良心や目標に忠実であろうとする傾向が強く、仮に周囲とずれていても内面の信念を貫くことがあります。したがって内部指向的な社会では、仲間集団は個人に対し絶対的な裁定者とはならず、あくまで個人の行動は内的規範に従う部分が大きいと言えます。
これに対しII. 他人指向段階での仲間たちでは、他人指向型社会での仲間の影響力が詳細に分析されます。
リースマンによれば、他人指向型の個人にとって同輩集団はしばしば「陪審団(jury)」のような役割を果たします。
すなわち、仲間からの承認や人気がその人の自己評価や意思決定を大きく左右し、仲間内で「浮く」ことや噂話の対象になることが強い心理的プレッシャーとなるのです。リースマンはこの現象を説明するために、以下のような概念を提示しています。
「裁判(The Trial)」
仲間内で行われる非公式な評価行為を裁判になぞらえ、ある個人の行動や選択が仲間たちによって批評・判断されるプロセスを指します。
例えば、誰かが奇抜な服装をすれば仲間内で話題に上り、その是非が問われる――こうした日常的な「審判」が行動の方向付けに影響します。
「みんなのうわさ("The Talk of the Town")」
仲間同士の噂話やおしゃべりを通じて、趣味嗜好や意見が共有・標準化されていく過程を指します。
これにより、仲間内での嗜好の社会化(socialization of preferences)が起こり、個人の好みや価値判断が周囲と同調していくと述べられます 。
現代の若者が流行に敏感になるのは、この「みんなのうわさ」の同調圧力が背景にあると言えるでしょう。
「仲間集団での敵対的協力者(The Antagonistic Cooperators)」
一見矛盾する言葉ですが、仲間内には競争しつつ協調する関係が生まれることを意味します。
例えば、友人同士が成績や異性関係で互いに張り合いつつも、同じグループの一員として外部には共に行動する、といった状況です。リースマンはこのような競合しながらも互いを必要とする仲間関係が他人指向社会の特徴であると指摘します。
以上のように、第3章では仲間からの評価や情報共有がいかに個人の価値観や行動選択を形作るかが示されています。他人指向型の人々は常に仲間内の空気を読み、自分が受け入れられているかを気にかけながら振る舞うため、仲間集団こそが重要な社会化エージェントとなるのです。
リースマンの描写からは、現代人が「周りに合わせること」に多大な労力を費やす姿が浮かび上がってきます。そしてそれは同時に、個人が本音や独自の価値観を出しにくくなる土壌でもあると暗示されています。仲間との調和が優先されることで、良くも悪くも世論に敏感で柔軟だが自我の拠り所が揺れやすい人格が形成される――この章はそのプロセスを示したと言えます。
第4章 「物語技術のさまざま——誰が性格形成をしてきたか(つづき)」 (Storytellers as Tutors in Technique: Changes in the Agents of Character Formation (Continued))
第4章では、物語を伝える存在(ストーリーテラー)、平たく言えばメディアの果たす役割に注目し、伝統社会から現代社会までの「物語技術」の変遷が論じられます。
歌や昔話から新聞・書籍、さらにはラジオ・テレビといったマスメディアに至るまで、情報伝達手段の変化が人々の価値観形成にどう影響したかを具体的に分析しています。
I. 歌とお話——伝統指向では、文字の普及以前あるいは限定的だった社会における物語伝達の姿が描かれます。
伝統指向型の社会では、物語は主に口承によって伝えられました。家の炉端(暖炉のそば)で祖父母や語り部から子供へ語られる昔話、民謡や歌などがそれにあたります。
このような「炉端のメディア」は、家族や共同体が物理的に集まる場で共有され、内容も「していいこと」と「して悪いこと」を教える寓話や道徳的教訓が中心でした。
物語は世代を超えて伝統を教え、人々に恥ずべき行いや守るべき掟を示す規範伝達装置として機能していたのです。
II. 印刷物——内部指向では、印刷媒体が普及した社会、すなわち近代以降の内部指向型社会における物語の役割を論じます。
活字による本や新聞は広範に情報を伝達できるようになり、人々は家庭や教会だけでなく書物から価値観や世界観を学ぶようになりました。リースマンは「ことばの鞭(The Whip of the Word)」という表現で、印刷物による教化力を比喩的に表現しています。
つまり、書かれた言葉が人々を鞭打つように影響を与え、行動を方向付けるという意味です。実際、19~20世紀初頭には文学や伝記の中の英雄・偉人像が人々のロールモデルとなり、勤勉や誠実といった価値観を植え付けました。
例えばベンジャミン・フランクリンの伝記に影響を受け自助努力を信条とする、といったことが多く見られたわけです。またリースマンは「行きすぎた子ども(The Oversteered Child)」という概念にも触れ、印刷物から過度に影響を受けた結果として、子供が型にはまり過ぎたり早熟になり過ぎたりする可能性も示唆しています。
つまり本や雑誌からの知識や価値観によって子供が大人の論理で管理されすぎ、自発的な発想が抑制される危険に言及しているのです。
III. マスメディア——他人指向では、ラジオ・映画・テレビなどのマスメディアが登場した他人指向型社会での物語伝達を分析します。
マスメディアは大量伝達手段として、不特定多数に同時に情報や娯楽を届ける力を持ちました。その結果、子供から大人まで社会全体が共有する物語(ニュース、流行歌、テレビ番組など)が生まれ、メディアが「みんなが知っていること」「みんなが好きなもの」を作り出すようになります。
リースマンはまず「こども向け市場(The Child Market)」という言葉で、マスメディアや広告産業が子供を重要なターゲットとし始めたことを指摘します。子供向け番組やおもちゃのコマーシャルによって、子供たちも消費社会の一員として取り込まれ、メディアを通じて価値観が形成されるのです。
さらに「勝ったものがみな貰う?(Winner Take All?)」という節では、メディアが伝える競争社会のイメージが議論されます。テレビゲームやクイズ番組、スポーツ中継などで「勝者が全てを手にする」ような競争原理が強調されることで、視聴者である子供たちに成功への過剰な同調や敗者への軽視を植え付けていないか、と問題提起しています。
実際、米国の子供向け番組には競争や賞品獲得を煽るものも多く、そうした内容が子供の価値観に影響する点を懸念しています。
続く「『機関車チュウチュウ号』——現代の教訓(Tootle: A Modern Cautionary Tale)」では、具体例として有名な子ども向け絵本『トゥートル(機関車トゥートル)』を取り上げています。
この物語は軌道を外れてお花畑で遊びたがる機関車のトゥートルが、「機関車は決して線路を外れてはいけない」という教訓を学ぶという内容で、現代版の寓話としてリースマンは言及しています。
トゥートルの話は一見微笑ましい子どものお話ですが、その裏には「決められたルールから外れるな」というメッセージがあり、これは他人指向社会における同調圧力の寓意と読めると示唆しているのです。
最後に「自由の領域(Areas of Freedom)」では、マスメディアが席巻する中で人々に残された自主性の領域について議論しています。大量の情報と娯楽に囲まれていても、人々が自主的に思考し行動できる余地(たとえば創造的趣味や批判的思考)はどこにあるのか、という問いかけで章を結んでいます。
第4章をまとめると、メディア(物語の伝え手)の変化が社会的性格の形成に与えた影響を類型ごとに整理した内容と言えます。
伝統社会では口承によって共同体規範が維持され、内部指向社会では活字メディアが個人の内面形成を左右し、他人指向社会ではマスメディアが世論や流行を生み出し人々の同調行動を導く――リースマンはこの流れを描き出しました。
現代に至るまでメディア環境はさらにインターネットやSNSへと変化していますが、リースマンの時代に既に**「物語の送り手」が個人の自由領域を狭め得る**ことを洞察していた点は特筆に値します。
第5章 「内部指向の生き方」 (The Inner-directed Round of Life)
第5章では、内部指向型の人間がどのように日常生活を営み、仕事や遊びにどんな価値観で臨んでいるかが描写されます。
ここでは内部指向型のライフスタイルの特徴を、仕事観・消費観・自己評価のあり方といった観点から掘り下げています。
I. 仕事人間(Men at Work)では、内部指向型に典型的な勤労観が論じられます。内部指向型の人々にとって、仕事は自己実現と社会的責任を果たす重要な場です。彼らは幼い頃から勤勉の徳を教え込まれており、「働かざる者食うべからず」といった倫理観を強く持ちます。
リースマンはここで「経済的問題——相手は物質(The Economic Problem: The Hardness of the Material)」というフレーズを用いて、内部指向型の仕事人間は物質的な対象に取り組む堅実な姿勢を示すと述べます。
つまり、彼らにとって仕事上の課題とは、人や感情を操作することではなく「モノ」を相手に努力し成果を上げることであり、その困難さ(hardness)に価値を見出します。工場労働者から発明家、技術者、開拓農民に至るまで、内部指向的な人物は物質的な世界に秩序を打ち立てることにやりがいを感じるのです。
モットーとして「困難を乗り越えて星へ(Ad Astra per Aspera)」が掲げられ、困難(Aspera)を経て高い成果(星=Ad Astra)を追求する勤勉さと向上心が強調されています。
II. 「おまけ」としての快楽(The Sideshow of Pleasure)では、内部指向型の人々にとって娯楽や余暇は本舞台ではなく脇役(サイドショー)であることが示唆されています。
彼らは仕事で責任を果たすことを人生の中心に据えているため、楽しみはあくまで「おまけ」、つまり余暇の副次的な位置づけです。しかし、それでも内部指向型の人々がどのように快楽に向き合うかについて、リースマンはいくつかの類型的態度を描いています。
「物持ちの消費者(The Acquisitive Consumer)」
内部指向型は努力の成果として財や資産を蓄えることに価値を置くため、消費においても物を所有すること自体に満足感を見出します。
例えば、堅実に貯金して家や車といった資産を取得すること、高品質な商品を選んで長く使うことなど、計画的で蓄積志向の消費行動が特徴です。
これは他人指向型のように見栄や流行で消費するのとは対照的で、内部指向型にとって消費は努力へのご褒美であり将来への投資でもあると言えます。
「すべてを忘れて(Away from It All)」
勤勉な内部指向人間も時には日常の責務から離れて休息を求めます。この節では、そうした現実逃避的な休暇について触れていると考えられます。
例えば、郊外に別荘を持ち週末は自然の中で静養する、あるいは読書や庭仕事で心を癒すといった、日常から距離を置いてリフレッシュする手段を取ります。
ただしそれもリフレッシュしてまた働くための英気を養うという位置づけで、決して遊び呆けることを良しとはしません。
「芸術とともに前へ、そして上へ(Onward and Upward with the Arts)」
内部指向型の中には、余暇を教養や自己啓発に充てようとする人々もいます。クラシック音楽や文学、絵画といった高尚な芸術鑑賞を趣味にすることで、自己の精神的向上を図るのです。
この姿勢は、楽しみでさえも人格形成の一環と捉える真面目さを示しています。「前へ、そして上へ」という表現に、常に向上しようとする内部指向型の上昇志向が現れています。
「遊びも本気で(Feet on the Rail)」
直訳すれば「足を欄干にかけて」ですが、これは酒場でカウンターの足掛け棒に足を乗せてリラックスする情景などを指す俗語表現です。
リースマンはこの節で、内部指向型の人間がリラックスするときでさえ何らかの目的意識や真剣さを内包している様子を描いた可能性があります。
例えば、酒場で一杯やる場合でも単なる快楽というより人脈作りや情報交換の場として活用したり、スポーツに打ち込む場合でも自己記録の更新を目指したりと、余暇にも真剣に取り組む傾向を示唆していると考えられます。
III. 「自分らしき」を求めて(The Struggle for Self-Approval)では、内部指向型の人々が常に自己の内なる基準に照らして自分を評価しようと努める姿が描かれます。
内部指向型は幼少期からの良心や目標に忠実に生きようとしますが、それだけに自分がその基準に適っているかどうかを絶えず点検します。リースマンはこれを「自己承認のための闘争」と表現し、内部指向的人格が抱える緊張感を指摘します。
例えば、仕事で十分な成果を出せなかった時に「自分は怠けてしまったのではないか」と内省して自らを叱咤したり、他者から称賛されても自分では納得がいかなければ満足できなかったりする、といった具合です。
彼らにとって大事なのは外部からの評価(名誉や人気)よりも自分自身の良心に恥じないかどうかであり、そのため周囲から見れば成功していても本人は「まだまだ」と感じていることもしばしばあります。
このように内部指向型は内面的な自己評価軸を強く持つため、他人指向型に比べて外圧には強いものの、自ら課したハードルとの闘いでストレスを抱えやすいとも言えます。
以上、第5章は内部指向型の典型的なライフパターンを浮き彫りにしています。そこから見えてくるのは、勤勉・節制・向上心といったプロテスタント的倫理観に通じる価値を体現する人物像です。
彼らは社会の中核を担う働き手として信頼できますが、同時に自他に厳しく息抜きの下手な性格でもあります。リースマンはこの章によって、次章で扱う他人指向型の生き方とのコントラストを準備しているとも言えるでしょう。
第6章 「他人指向の生き方——『神のみちびき(インビジブルハンド)』から『お愛想(グラッドハンド)』へ」 (The Other-directed Round of Life: From Invisible Hand to Glad Hand)
第6章では、他人指向型の人間のライフスタイルが詳述され、特に経済活動や対人関係における価値観の変化が描かれます。
章題にある「見えざる手(Invisible Hand)」から「握手(Glad Hand)」への転換は、アダム・スミスの市場原理になぞらえた経済的自己調整の時代(内部指向的な自由競争の理想)から、愛想よく握手を交わす対人調整の時代(他人指向的なネットワーク重視の現実)への移り変わりを象徴しています。
I. 経済的問題——相手は人間(The Economic Problem: The Human Element)では、他人指向型社会における仕事・経済活動の特徴が論じられます。
内部指向型の人々にとって仕事上の課題は「物」を相手にすることでしたが、他人指向型にとっては「人」を相手にする技術が何より重要になります。
リースマンはこれを端的に示すため、以下のような転換点を列挙しています。
「モノ作りの技術から人あしらいの技術へ(From Craft Skill to Manipulative Skill)」
産業社会では製品や物質を扱う職人的技能が重視されましたが、大衆消費社会では人間関係を巧みに操作・調整するスキルが重視されます。
営業マンや宣伝マン、カウンセラーなど、人と接して何かを説得したり販売したりする職種が増え、そこで成功するには愛想の良さ・社交術・心理操作といった能力が求められるのです。
「自由取引から公正取引へ(From Free Trade to Fair Trade)」
内部指向的な経済倫理は自由競争・自己責任でしたが、他人指向化が進むと、競争よりも協調や公正さが建前として重んじられるようになります。
独占禁止法やコンプライアンス、企業の社会的責任(CSR)の強調など、ビジネスにおいても「あからさまに勝てば良い」という姿勢は避け、フェアプレーを装うことが求められます。もっとも、これは実質よりもイメージ戦略としての側面が強く、周囲から非難されないようにするための調整といえます。
「銀行口座から必要経費へ(From the Bank Account to the Expense Account)」
ここでは個人の資産蓄積よりも、組織内での交際費や経費処理といった会社人間的な経済観への移行が示唆されています。内部指向型は自分の銀行口座残高を増やすことに励みましたが、他人指向型のビジネスマンは会社の経費で接待交際し、社内でのポジションを上げることに注力するイメージです。
つまり、経済的成功の物差しが「個人の貯蓄」から「組織内でどれだけ他人に金を使わせる立場か」へと変わるということです。経費で高級レストランに行ける管理職は一種のステータスであり、こうした環境では金銭感覚も個人主義的ではなく組織コミュニティ的になります。
以上の転換に見られるように、他人指向型社会では仕事の目的も手段も対人的な調整とネットワーク形成が中心になります。リースマンはこの流れを総括して、見えざる手(市場原理)による自動調整よりも、人間同士の阿吽の呼吸や根回し(グラッドハンド=にこやかな握手による社交)による調整が幅を利かせるようになったと論じています。
現代の企業文化で言えば、「実力主義」より「空気を読む力」が出世に物を言う状況とも言えるでしょう。
II. 銀河系(The Milky Way)では、一転して比喩的な表現の節題が現れます。
リースマンは内部指向型の内なる羅針盤(ジャイロ)に対比して、他人指向型には多数の星(=他者)が散在する銀河系のような環境が広がっていると考えたのかもしれません。
すなわち、一人の内部指向人間にとって行動指針は自分の中に一本通っていますが、他人指向人間にとって指針となるものは周囲に点在する多くの他者からのシグナルであり、それらはまるで天の川の星々のように散らばっているというイメージです。
内部指向型は北極星のごとき不動の信念を持つが、他人指向型はレーダーで周囲360度をスキャンして逐次進路を決める――この対比をリースマンは宇宙的メタファーで表現したと考えられます。
実際、他人指向型の人々は家族、友人、同僚、近所付き合い、趣味の仲間、さらにはテレビの中の有名人やSNS上の他者に至るまで、無数の「他者の目」を意識しながら自分の立ち位置を定めます。
その様子を銀河系になぞらえ、「自分という惑星が多くの重力源(他者)のバランスの中で軌道を保っている」かのように説明していると捉えられます。
第6章全体を通じて明らかになるのは、他人指向型の価値基準がいかに対人的調和に依存しているかという点です。彼らは他者から「好かれること」を重視し、摩擦を避けて円滑な人間関係を築くことを優先します。
そのため、内部指向型がしばしば持つような独自の信念や原則が相対化され、状況に応じて態度や主張を変える柔軟性があります。
リースマンの言葉で言えば、他人指向型の人は「尊敬されることより愛されること」を望むのであり、それは裏を返せば組織の円滑な運営には貢献するものの、自律性や独創性の希薄さにもつながり得るのです。
第6章は、そうした他人指向的性格の長所(協調性・順応性)と短所(没個性・付和雷同)を経済生活の側面から描き出しています。
第7章 「他人指向の生き方(つづき)——もうひとつの顔」 (The Other-directed Round of Life (Continued): The Night Shift)
第7章は、他人指向型のライフスタイルの後半部分を扱い、特に私生活(食や性)や大衆娯楽の消費に焦点を当てています。
副題の「もうひとつの顔(The Night Shift)」は直訳すれば「夜勤」ですが、本書の文脈では昼の顔(職場での公的自己)に対する夜の顔(私生活での自己)を意味していると考えられます。すなわち、他人指向型の人々がプライベートな領域でどのような価値観・行動様式を持つか、そして公的領域との対比で何が浮かび上がるかを論じている章です。
I. 食と性の象徴的意味(Changes in the Symbolic Meaning of Food and Sex)では、まず食文化と性道徳の変化が取り上げられます。
リースマンは食や性といった基本的欲求領域にも社会的性格の影響が現れると考え、伝統的な様式と現代的な様式の対比を描いています。
「ふだんの食事から美食へ(From the Wheat Bowl to the Salad Bowl)」
これは食生活の比喩で、直訳すれば「小麦のボウルからサラダのボウルへ」です。伝統指向社会ではシンプルで慣れ親しんだ主食(例えばパンや粥など小麦料理)が中心でしたが、他人指向社会では多様で洗練された料理(サラダは色とりどりの食材を混ぜた象徴)が好まれるようになったという意味に取れます。
実際、アメリカ社会では20世紀に入り多文化的な料理やグルメ嗜好が広がり、食事は単なる栄養摂取からステータスや趣味の表現へと変わっていきました。
リースマンはこの変化を、他人指向型が他者の目を意識して食事にさえ流行や見栄を持ち込む傾向と関連付けていると考えられます。人々は「みんなが良いと言うもの」を食べ、「流行り」のダイエットやレストランに敏感になる――それは食の嗜好が個人の内発より周囲の評価に影響されていることを示唆します。
「性——最後のフロンティア(Sex: The Last Frontier)」
性に関しては、伝統社会では厳格な規範に縛られ隠されていたものが、他人指向社会では徐々に解放されつつある様子を指摘しているようです。「最後のフロンティア」とは、他人指向的な開放性が及ぶ最後の領域という意味合いでしょう。20世紀中葉以降、性的価値観は大きく変化し、性的表現や行動の自由度が増しました。
しかしその自由もまた流行や周囲の目から無縁ではなく、性的な振る舞いさえ他者との比較や評価の対象となり得ます。他人指向型の人々は性の領域でも「人並み」であることに気を遣う傾向があり、極端な禁欲や奔放さを避け、多数派の基準に沿おうとする心理が働くと考えられます。
このように、食と性というプライベートな領域においても他人指向性が反映され、消費社会の象徴的意味(象徴消費)が生まれているとリースマンは論じています。
II. 大衆文化をどう消費するか(Changes in the Mode of Consumption of Popular Culture)では、娯楽や余暇活動における他人指向型の行動様式が分析されます。
ここでは、映画・音楽・スポーツ・旅行など大衆的な娯楽の消費を通じて、他人指向型の特徴がいくつか描かれています。
「仲間にあわせた娯楽(Entertainment as Adjustment to the Group)」
他人指向型の人々は、自分が心から楽しみたいことよりも、仲間と一緒に楽しめることを重視します。
例えば、自分は興味がなくても流行している映画を友人と見に行ったり、周囲がハマっているテレビ番組を話題についていくために視聴したりします。娯楽の選択が他者との社交の手段となっており、「皆で盛り上がれる」こと自体が価値になるのです 。
「戦場での生活技術(Handling the Office)」
直訳だと「職場の扱い方」ですが、これは娯楽消費に関連して、職場における付き合いや社交術のことを指しているようです。職場で同僚と関係を築くためにゴルフコンペに参加したり飲み会に顔を出したりと、仕事とプライベートの境界をまたいだ社交が行われます。
そうした場でも他人指向型の人々は場の空気を読み、自分が受け入れられるよう振る舞います。職場は競争の「戦場」でもありますが、そこを生き抜くには単に仕事ができるだけでなく上手に人と付き合う技術が欠かせないという意味でしょう。
「家庭での生活技術(Handling the Home)」
こちらは家庭内、特に核家族における対人スキルを指します。夫婦関係や親子関係でも、他人指向型の人々は相手の気持ちを慮り、衝突を避けて調和を保とうとします。家庭が安らぎの場であると同時に、そこでもお互いに演技的な「良い夫・良い妻・良い子」を演じる部分が出てくる可能性が示唆されます。
つまり、本音よりも円滑な関係維持を優先し、家族内でも互いに他者として気を遣いあう傾向です。
「むずかしい調和(Heavy Harmony)」
直訳すると「重苦しい調和」でしょうか。これは他人指向型社会における調和の取り方が、ときに息苦しさや難しさを伴うことを指すと考えられます 。
皆が皆に合わせようとするあまり、かえって誰も本心を言えずストレスが溜まったり、相互に「空気を読みすぎる」ことで本当の意味でのリラックスができなかったりする状態です。宴会の席で場を盛り上げようと必死になりすぎて疲れる、といった例にも表れるでしょう。
リースマンは他人指向型の調和にはそうした影の部分があることを示唆しています。
「孤独な成功(Lonely Successes)」
他人指向型社会では、他者から見た成功(高収入・地位・人気)を収めても、その人自身は孤独感を抱く場合があることが示されています 。
周囲の期待に沿って生きてきて成功者となったものの、「本当の自分」を理解してくれる人がいない、自分でも何のために成功を目指したのかわからなくなる、といった心理状態です。
他人指向型人間は他者に合わせて自己を変容させる達人ですが、その結果、核心の自己を見失い、成功の充実感を素直に味わえないという虚しさが残る可能性があります 。
リースマンが憂慮するのは、まさにそうした内面的な孤独なのです。
「逃避よさようなら(Good-bye to Escape?)」
この節は疑問形になっていますが、意味するところは「現実逃避はもうできないのか?」という問いでしょう。前述のように他人指向型社会では人々は常に他者とつながり、監視され、比較され続けます。そのため、一人になって自分だけの世界に浸る(例えば夢想にふける、創作に没頭する)といった逃避の場が減っているのではないかという指摘です。
テレビやラジオが四六時中流れ、SNSで常に他者の動向が入ってくる現代を先取りしたような洞察と言えます。ここでリースマンが問いかけているのは、人々は社会のネットワークから完全に離れてリセットする時間を失いつつあるのではないか、そしてそれは個人の精神にどんな影響を与えるのか、ということです。
III. ふたつのタイプを比較する(The Two Types Compared)では、内部指向型と他人指向型の総括的な比較が行われています。
第5章と第7章にわたって、それぞれの生活様式を詳細に描いたうえで、リースマンは最後に両者の違いを際立たせています。
例えば、自律性や心の拠り所の違い、ストレスの性質の違い、社会秩序への影響などが論じられていると思われます。内部指向型は「罪の文化」に生き、自らの良心に照らして自分を裁きますが、他人指向型は「不安の文化」に生き、他者から逸脱していないか不安を抱える――こうした対比が改めて強調されていることでしょう。
また、内部指向型は堅実だが変化への対応が鈍く、他人指向型は柔軟だが主体性に欠ける、といった長短も比較検討されている可能性があります。いずれにせよ、この節は二つの性格類型の相違点とそれぞれの社会的意味をまとめ、読者に印象付ける締めくくりとなっています。
第7章を総括すると、他人指向型性格の私的領域での表出を多角的に検討した内容です。他人指向型の人々は、表面的には明るく社交的で時代の流行によく適応していますが、その陰では本当の孤独や同調への疲労を感じているかもしれないという洞察が示されています。
他人指向型がもたらす社会は協調的で平和にも見えますが、個人レベルでは自己喪失や疎外感が潜在するという「群衆の中の孤独」のパラドックスが、ここで浮き彫りにされているのです。
第1部「性格」の最後を飾るこの章は、次の第2部で議論される政治や第3部で論じられる自律性の問題意識へと橋渡しする重要なまとめとなっています。
第8章 「伝統指向、内部指向、他人指向―それぞれの政治スタイル:無関心派、道徳派、内幕派」 (Tradition-directed, Inner-directed, and Other-directed Political Styles: Indifferents, Moralizers, Inside-dopesters)
第8章からは第2部「政治」に入り、社会的性格の類型ごとに異なる政治的態度・行動様式が論じられます。
第8章では、伝統指向型・内部指向型・他人指向型それぞれに対応する典型的な政治スタイルを3つ提示しています。それが章題にもある無関心派(Indifferents)、道徳派(Moralizers)、内幕派(Inside-dopesters)の三類型です。
無関心派(Indifferents)
政治に対して無関心・不参加な人々を指します。リースマンはこの無関心層にも「オールドスタイル」と「ニュースタイル」があると述べています。
旧来型の無関心は伝統指向型の社会に見られるもので、地域共同体や日々の生活に密着した関心事以外には眼中になく、国家規模の政治には関与しないタイプです。
例えば村社会で暮らす人々が中央政界の動きに無頓着であるようなケースです。一方、新しい無関心は他人指向型社会での現象で、情報は溢れているもののかえって政治への幻滅やシニシズムから「どうせ自分が関与しても変わらない」と距離を置くタイプです。
現代の多数の有権者が投票に行かず、娯楽コンテンツばかり追うような傾向は、まさにこの新しい無関心派と言えます。リースマンの分析では、伝統指向型の無関心は知識や接触機会の欠如によるものですが、他人指向型社会の無関心は過剰な情報と相対主義の中で生まれる厭世観によるもの、という違いが示唆されます。
道徳派(Moralizers)
道徳的・理念的な観点から政治に関与する人々です。これは内部指向型の政治参加スタイルに相当します。彼らは強い信念や正義感に基づき政治問題に取り組み、社会改革や道徳秩序の維持を訴えます。リースマンは道徳派について、「権力を握った道徳派」と「退却する道徳派」にスタイルの違いがあると述べています。
権力を握った道徳派とは、自らの信念を政策に実現する立場にある時の姿で、しばしば理想を掲げて急進的改革を行ったり、道徳原則に忠実な統治を行おうとします。
例えば宗教的原理主義に基づいて法律を定めようとする政治家などが該当するでしょう。一方、退却する道徳派とは、自分たちの信じる価値観が社会で後退していく局面で見せる姿です。
彼らは世の中が堕落したと嘆き、往年の価値観への回帰を訴えたり、場合によっては隠遁的コミュニティを作って現実社会から距離を置いたりします。
このように道徳派は一貫して内部指向型的な「確固たる信念」に動かされていますが、その政治行動は状況(主流か周辺か)によって異なる顔を見せます。
リースマンは内部指向型のもつ理念追求の力と妥協のなさをここで強調し、他人指向型主流の社会では彼らが時に古風で浮いた存在になることも示唆しています。
内幕派(Inside-dopesters)
政治を一種のゲームや内幕情報の世界として捉える人々です。これは他人指向型の政治参加スタイルに対応します。内幕派の関心はイデオロギーや政策の良し悪しではなく、「誰が勝ちそうか」「政局はどう動くか」といった情報戦にあります。
いわば政治をスポーツ中継を見るように捉え、裏情報(inside dope)を知ること自体に快感を覚えるタイプです。
現代の例で言えば、選挙予測やスキャンダルに熱中し、特定の政策議論よりも政治ドラマとして消費する層が該当するでしょう。リースマンはこの内幕派について「内幕情報の収支決算(The Balance Sheet of Inside Dope)」という節を設け、彼らの態度が政治にもたらす影響を検討しています。
内幕派が増えると政治はショー化し、メディアは政策論争より政局報道に時間を割くようになるでしょう。その結果、国民の政治意識は浅薄化し、民主主義の質が低下する懸念があります。
しかし一方で、内幕派的態度は強いイデオロギー対立を和らげ、寛容な世論形成に資するという見方もできるかもしれません(相手を悪魔化せず、一種のゲームとして距離を置いて見るため)。
リースマンはこの「内幕情報」のプラス面とマイナス面を天秤にかけつつ、他人指向型時代の政治文化を批評しています。
第8章では以上の三類型を提示することで、社会的性格が政治参加のあり方に反映される様相を示しました。伝統指向型は政治的無関心に陥りやすく、内部指向型は政治を道義的使命とみなし、他人指向型は政治を情報ゲームとして捉える――この図式は単純化ではあるものの、現実の政治において確かに見出せるパターンです。
リースマンは特に、20世紀中頃のアメリカでは内部指向的な道徳派が影を潜め、無関心派と内幕派が増大していることを示唆していると考えられます。これは当時の冷戦期アメリカで、イデオロギー闘争に疲れた大衆が政治離れやシニカルな傍観姿勢を取っていた状況を反映しているとも言えます。
第8章は、そうした政治風土の変化を社会的性格理論で説明しようとした試みと位置づけられるでしょう。
第9章 「政治的説得——怒りと『やさしさ』」 (Political Persuasions: Indignation and Tolerance)
第9章では、政治における説得やプロパガンダの様式が取り上げられ、特に「憤激(Indignation)」と「寛容(Tolerance)」というキーワードで大衆の感情動員の変化が論じられます。
「怒りと『やさしさ』」と訳された副題の「やさしさ」は英語のTolerance(寛容)に対応しており、直訳とは若干ニュアンスが異なりますが、ここでは「穏健さ」「寛大さ」を指すと考えられます。
I. 政治を消費の対象として(Politics as an Object of Consumption)では、現代社会において政治が有権者にとって一種の商品や娯楽のように扱われている実態が論じられます。
これは前章で触れられた内幕派的態度にも通じますが、リースマンは大衆が政治を深い信念に基づく参加の場ではなく、観戦・消費する対象として受け取っている傾向を指摘します。
例えばテレビ討論や選挙キャンペーンが、政策内容の吟味よりショーアップされた演出として楽しませるものになっていること、政治的な関心が「誰が勝つか」という馬券を買うような関心に転化していることなどが示唆されます。こうした状況では、有権者は熱狂的な怒り(Indignation)をかき立てられるよりも、軽い興味と寛容(Tolerance)の態度で政治を眺めるようになります。
つまり、「まあまぁ、色々な意見があるのもいいじゃないか」といった調子で、深刻に捉えすぎず適度な距離感で政治と関わるようになるのです。
II. メディアは寛容の教師(The Media as Tutors in Tolerance)では、マスメディアが人々に与える影響として寛容(やさしさ)の態度を育てる役割が論じられます。
多様な番組やニュース解説を通じて、視聴者は異なる意見や文化に触れる機会が増えます。メディアは露骨な扇動よりも、むしろ視聴者に「色々な見方を理解しましょう」というメッセージを送りがちです。これは表面的には望ましい態度(寛容)ですが、リースマンはそれが政治への情熱を冷ます効果を持つ側面も指摘しています。
例えば討論番組で複数の立場が紹介されると、視聴者は「真実はその中間にあるのだろう」と漠然と考え、積極的にどちらかを支持する熱意を失うかもしれません。また、メディアが中立や公正を装うことで、どっちつかずのシニシズムが広がる可能性もあります。
しかし同時に、この節では寛容と並んで「誠実さの礼賛(the Cult of Sincerity)」についても触れられています。政治家やパブリック・フィギュアが誠実さ(本音で語ること)を演出することで、人々の好感を得ようとする現象です。
現代の政治でも「庶民派」「涙を見せるリーダー」といった演出がありますが、リースマンはそうした見せかけの誠実さが寛容な世論と結託して、本質的な争点を曖昧にする恐れを示唆しているように読めます。
誠実さのアピールは一歩間違えれば「シニシズム(皮肉な冷笑)との紙一重」であり、人々が政治家の誠実アピールを斜に構えて見るようになると、結局は何にも信頼を置かない風潮につながりかねません。
III. メディアは政治から自由か?(Do the Media Escape from Politics?)では、メディア自身が政治的影響から自由でいられるのかという問題が提起されています。
建前上は中立であろうとするメディアも、実際にはスポンサーや大衆の嗜好に左右され、政治議題の扱い方にバイアスがかかります。
またメディアは単に世論に従うだけでなく、しばしば世論を形成・誘導する政治的アクターとして機能します。この節では、そうしたメディアと政治の関係性が批判的に検討され、メディアは政治から逃れられないし、政治もまたメディアを利用するという相互依存が指摘されているでしょう。
結果的に、大衆の寛容や冷笑を生んでいる張本人がメディア自身である可能性も示唆されます。
IV. 怒りの貯水池(The Reservoir of Indignation)では、一転して社会に蓄積する潜在的な憤りについて論じています。
大衆が一見シニカルで無関心に見えても、実は内心には不満や怒りが溜まっているかもしれない、とリースマンは考察します。経済的不平等や社会の不公正に対する怒りは、表には出にくくても鬱積し、「貯水池」に水が溜まるように社会の底流に漂っているかもしれません。
そして何かの契機(例えば経済危機やスキャンダル)でそれが一気に噴出すれば、爆発的な政治運動が起こり得るという警鐘とも読めます。
他人指向的な大衆は普段は穏健に振る舞っていても、周囲が一斉に怒り出すと同調して一気に過激化する可能性があります。この節では、そのような潜在的怒りのリスクと、それをどう汲み上げる(あるいは緩和する)べきかが議論されていると思われます。
V. 「夢の中に責任が始まる」("In Dreams Begin Responsibilities")では、有名な詩の一節を引用しつつ結びに入っています。このフレーズは、「夢を見るところから責任が生まれる」という意味で、理想を描くこと(夢想)と現実の責任ある行動を結びつける言葉です。
リースマンはこれを用いて、政治において大衆が夢(理想)を持つことの大切さ、そしてそれに伴う責任を暗示しているように思われます。
つまり、寛容や冷笑で斜に構えているだけでは社会は良くならず、人々が再び怒るべき時には怒り、理想に向けて責任をもって行動することが必要ではないか、というメッセージです。
第9章全体を通じてやや醒めた大衆像を描いてきましたが、最後にリースマンは市民の主体的責任に話を繋げており、これは次章以降の議論にも関連してくるテーマです。
第9章をまとめると、大衆社会の政治における感情のあり方が主題と言えます。内部指向的な「義憤にかられた政治参加」と、他人指向的な「穏健すぎる政治傍観」の対照が描かれ、現代では後者が支配的であるものの、その裏に潜む危うさや欠落も指摘されています。
そして結論部分で、市民が理想(夢)を持ち責任を果たすことへの期待をほのめかし、次章「権力のイメージ」や最終部「自律性」への橋渡しをしています。リースマンは決して現状に迎合するだけでなく、変化の必要性を示唆している点で、この章は批評的かつ建設的な内容になっています。
第10章 「権力のイメージ」 (Images of Power)
第10章では、人々が抱く「権力」や「権威」に関するイメージ、および実際の権力構造の変化について論じられます。
社会的性格の視点から、伝統的な権力観と現代的な権力観の相違が分析され、誰が権力を持っているのかに対する人々の認識の変化も議題になっています。
I. 指導者と被指導者(The Leaders and the Led)では、まずリーダーと大衆の関係性が語られます。
伝統指向や内部指向の社会では、指導者(政治家・事業家など)はしばしばカリスマ的・権威的な存在でした。
例えば「産業資本の巨人(鉄道王・石油王)」のような19世紀の指導者像や、厳父長的な政治家像が人々に共有されていました。しかし他人指向型の社会では、リーダーシップのスタイルも変化します。人々は威厳ある「偉人」を求めるよりも、自分たちに近い感覚を持つ親しみやすいリーダー像を好むようになります。
リースマンはこの変化を踏まえ、指導者層と大衆層の関係がより双方向的・同質的になりつつあることを指摘します。
現代のリーダーは大衆のニーズに敏感で迎合的になり、一方大衆はリーダーを偶像視せず身近な存在として捉える傾向があります。これは裏を返せば、リーダーが威厳や独自のビジョンを失い、大衆迎合に陥る危険性も孕んでおり、リースマンは他人指向社会におけるリーダーシップの弱体化を懸念している可能性があります。
「産業の総帥」と「消費の総帥」(Captains of Industry and Captains of Consumpt)では、経済領域の権力者像の変化が扱われています。
かつては「産業の総帥(Captain of Industry)」、つまり製造業やインフラを牛耳る資本家こそが社会の頂点に立つ存在でした。彼ら内部指向型の資本家は、新しい産業を興し物質的繁栄をもたらす英雄として語られました。
しかし現代では、製造業のリーダー以上に「消費の総帥(Captain of Consumption)」が力を持つようになったとリースマンは指摘します。
消費の総帥とは、マスメディア・広告・マーケティングなどを駆使して、大衆の消費行動を左右する人物像です。
例えば、大手ブランド企業のCEO、有名広告代理店の重役などがそれに当たります。彼らは直接「モノ」を作るのではなく、「欲望」や「イメージ」を作り出すことで権力を振るいます。
この移行は、他人指向型社会において人々の関心が生産から消費へシフトしたことを如実に表しています。
リースマンは、現代の中産階級が伝統的規範や宗教よりも消費文化によって統合されている状況を背景に、そうした新しい権力エリートの台頭を論じています。
II. 誰が権力を持っているのか?(Who has the Power?)では、現在の社会で実際に権力を行使しているのは誰かという問いを掘り下げます。
ここでは「拒否権グループ(The Veto Groups)」という言葉が登場します。これは、特定の政策や意思決定に対し事実上の拒否権を持つ多様な利益集団を指します。
伝統的には、一枚岩の支配階級(エリート層)が社会を動かしているという見方がありましたが、リースマンは現代社会ではむしろ複数の圧力団体や利害集団がせめぎ合い、お互いにブレーキをかけ合っていると指摘します。
例えば、産業別のロビー団体、労働組合、農業団体、市民運動団体、専門職団体などが、それぞれ自分たちの既得権益を守るために政治に影響力を行使し、結果としてどのグループも決定的な支配はできず、お互いの拒否権行使によって現状維持が続く、といった状況です。
この分析は、プルーラリズム(多元主義)的な政治観に近く、「支配階級はもはや存在するのか?」という問いにも繋がります。
リースマンは「もはや支配階級は残っているのか?(Is There a Ruling Class Left?)」という疑問を投げかけ、従来の意味での明確な統治エリートが不在になりつつある可能性を示唆します。
もし伝統的エリート(旧来の上流階級や一部の大資本家)が影響力を失い、代わりに複数の「拒否権グループ」のせめぎ合いになっているなら、社会は統一的ビジョンを欠いたまま漂流する危険があります。
一方で、それは逆に言えば、一極に権力が集中しない民主的な均衡とも言えます。リースマンのトーンからは、他人指向型社会では価値観の共有が希薄化しエリート層も分裂しているため、結果として強力なリーダーシップや方向性が生まれにくくなっているという憂慮が読み取れます。
つまり、「孤独な群衆」の社会では、皆が互いに牽制し合うばかりで、社会全体を導く明確な指針が持ちにくいという指摘です。
以上、第10章は現代社会における権力の所在と人々の権力観を整理した章です。産業時代のヒーロー的人物像が薄れ、消費社会の目に見えづらい権力者が台頭していること、支配構造が複雑化・多極化していることを論じています。
これは他人指向型の大衆が自ら望んだ結果でもあります。なぜなら、カリスマ的指導者による引率は個人の自主性を奪いかねないため、大衆はそれを避け、代わりに自分たちの小集団の利害を守る方を選んだからです。
しかしその帰結として、社会はビジョンや統一感を喪失し、漂流状態に陥るリスクを孕んでいます。
リースマンの分析は、そうした21世紀にも通じる問題(リーダー不在やポピュリズムの横行など)を先取りしているようにも見えます。次章のアメリカ人とクワキトル族の比較は、一見突飛ですが、この権力と大衆の関係をさらに別の角度から照らすためのものとなります。
第11章 「アメリカ人とクワキトル族」 (Americans and Kwakiutls)
第11章では、少し趣向を変えて異文化比較が行われます。
クワキトル族とは、北米太平洋岸北西部の先住民族(現在のカナダ・ブリティッシュコロンビア州に居住)のことで、ポトラッチと呼ばれる社会習慣で人類学的に有名な部族です。
リースマンはこの章で、現代のアメリカ人社会とクワキトル族の伝統社会を比較することにより、社会的性格と文化の関係について洞察を深めています。
クワキトル族のポトラッチとは、酋長など有力者が食糧や財貨を盛大に配って富の誇示と再分配を行う儀式であり、伝統指向型社会における名誉と地位の象徴的競争の場でした。
彼らは富を蓄積して自分だけの利益にするのではなく、大宴会で浪費的に配ることで威信を高めました。その背景には、共同体内の評判(恥と名誉)が強力に人々を動機付ける文化があったと考えられます。
リースマンはこのクワキトル族の行動原理を分析し、アメリカの消費社会との類似点と相違点を浮き彫りにします。
例えば、クワキトル族の酋長が「他人に富を与えることで自らの地位を上げる」のは、一見アメリカ的な資本主義とは反対のようですが、その本質は他者からの承認**を得るための消費行動という点で共通しています。
現代アメリカの富裕層も、豪華なパーティーやチャリティーで寄付をすることで社会的名声を得たり、豪邸や高級車を誇示してステータスを示したりします。
これらは形こそ違え、富の象徴的な浪費によって他者に印象を与える行為です。つまり、クワキトル族のポトラッチとアメリカの富裕層の顕示的消費(ヴェブレンの言う「誇示的消費」)には、社会的性格(ここでは他人指向性)の共通項があると考えられます。
しかし相違点もあります。クワキトル族の行動は伝統に深く根差し、社会全体でその価値が共有されていました(皆がポトラッチの意義を理解し尊敬した)。
一方、アメリカの消費行動はより個人主義的・経済合理的な枠組みの中で行われ、あからさまな浪費は批判も招きます。
リースマンは、クワキトルの例を引くことで「高度に伝統指向的な文化でも、他人(共同体)の目を強く意識した行動が見られる」ことを示し、社会的性格の普遍性を示唆しているのでしょう。
また同時に、アメリカ社会も一種の新たな儀礼(大量消費という儀式)によって人間関係を調整していると見ることができます。例えばクリスマスの贈答習慣や、大規模イベントでの散財などは、現代版のポトラッチと考えられる面があります。
リースマンがこの章で最終的に言いたいのは、社会的性格は文化や時代によって異なる形を取るが、人間が他者との関係性の中で自分の位置を確認しようとする根本構造は共通しているということではないでしょうか。
アメリカ人とクワキトル族という全く異なる社会を比較することで、逆に人間社会一般に存在する原理(他者からの承認欲求や競争と協調のダイナミズム)が浮かび上がります。
リースマンはこれまでアメリカ社会内部の変化を主に論じてきましたが、ここで視野を広げることで、自身の社会性格論が特定文化だけでなく幅広く応用可能であることを示そうとしたのかもしれません。
また、この比較を通じて、他人指向型社会の未来についても示唆があると考えられます。高度に他人指向化した社会は、ある意味ではクワキトル族のように競技的・儀礼的な極致に達する可能性があるという警告です。
すなわち、経済的豊かさが満ちた社会では、人々は実利ではなく儀礼(象徴行為)に熱中し、互いに富や地位を誇示し合うだけの空虚な競争に陥る危険があるという視点です。
これは本書のタイトル「孤独な群衆」にも通じるアイロニーで、物質的には豊かでも精神的には空虚な群衆像がここでも投影されています。
第11章は本書でも異色の文化人類学的アプローチですが、社会的性格論の補強と批判的示唆を担う重要な位置づけです。
伝統社会の例との比較により、読者は自らの社会を客観視でき、同時に社会の行く末について考えさせられる構成になっています。この章を経て、読者はいよいよ最終部で論じられる「自律性」の問題に向き合うことになります。
第12章 「適応か自律か?」 (Adjustment or Autonomy?)
第12章から第3部「自律性(Autonomy)」に入り、リースマンの議論は現代社会における個人の自律の可能性へと焦点を移します。
章題「適応か自律か?」は、そのまま「(他人指向的な)周囲への適応」と「(主体的な)自律」のどちらを選ぶべきか、という問いを投げかけています。
まずI. 適応した人々、アノミー的人々、自主的人々(The Adjusted, The Anomic, The Autonomous)では、現代社会における人々の状態を3類型に分類しています。
適応した人々(The Adjusted)
これは周囲の期待や社会の要求にうまく順応している人々を指します。典型的な他人指向型であり、学校・職場・家庭などで円滑に役割をこなし、大きな問題もなく生活している人たちです。彼らは協調性が高く「良い人」であり、社会から見ると望ましい市民像に映ります。
しかしリースマンの視点では、この「過剰に適応した人々」は主体性や批判精神が希薄である可能性が示唆されます。波風を立てずに生きているが、自分の信念や個性が見えにくい存在とも言えるでしょう。
アノミー的人々(The Anomic)
デュルケームのアノミー概念から借用した言葉で、社会的規範から逸脱したり疎外感を抱えたりしている人々を指します。現代社会の中で方向を見失い、適応にも自律にも至れず、中途半端に孤立している状態です。
例えば、社会の競争についていけず失業してしまった人、ドラッグやアルコールに逃避する人、引きこもり的な人などがこれに相当するでしょう。彼らは他人指向社会のプレッシャーに耐えられず、適応に失敗した結果として無規範状態(normlessness)に陥っていると考えられます。
リースマンはこの層を警戒し、無気力や虚無感が広がることで社会全体の健全性が損なわれる可能性を示しています。
自主的人々(The Autonomous)
そしてリースマンが理想とする、自律的な個人です。自主的人間とは、他人指向型社会にあっても流されず、自分なりの価値観や良心を保ちながら行動できる人々です。
彼らは内部指向型のように生来のジャイロスコープだけに頼っているわけではなく、様々な情報や価値を知りつつも自分の判断で取捨選択し、生き方を決められる柔軟性と確固さを併せ持っています。
リースマンはこの自律的人間こそが、他人指向の群衆の中で埋没せずに創造性や良識を発揮できる希望だと考えています。
次に、II. 内部指向的性格における自主性(The Autonomous among the Inner-Directed)とIII. 他人指向的性格における自主性(The Autonomous among the Other-Directed)で、内部指向型と他人指向型それぞれの環境下での自主性のあり方が論じられます。
内部指向的社会(19世紀型の社会)では、社会自体が比較的画一的な価値観を持っていたため、ある意味「自主性」を語る余地が狭かったとも言えます。人々は皆共通の内部ジャイロを持っており、それに忠実であることがむしろ求められました。
しかしその中でも、例えばトランセンデンタリスト運動(ソローやエマソンのような個人主義者)や、西部開拓で既存社会から離れて独自のコミュニティを作った人々など、内部指向社会の中でさらに一歩進んだ自主性を体現した例があるかもしれません。
リースマンはそうした内部指向型社会における自主性の芽について考察していると考えられます。
他人指向的社会で自主性を発揮することはさらに難しい挑戦です。大衆の監視や同調圧力が強い環境で、自分の道を行こうとすれば孤立や摩擦が生じやすいからです。しかしリースマンは、他人指向社会にも自主的人間が現れ得ると主張します。
その例として「ボヘミアン(Bohemia)」を挙げています。ボヘミアンとは、芸術家や知識人など既成の社会規範にとらわれず自由奔放に生きる人々のことです。20世紀のビートニクやヒッピー、前衛芸術家コミュニティなどはボヘミアン的文化の典型で、世間から逸脱した生活を送りながら独自の価値観を追求しました。
彼らは他人指向的主流社会からは距離を置きつつも、新たな文化や思想を創造するという意味で自主性の象徴です。また自主性の領域として「セックス」も挙げられています。
性の分野は個人の私的領域であり、ここで従来のタブーを破って自由な関係性を築くこと(例:婚前同棲、LGBTの自己主張など)は、他人指向社会に一石を投じる自主的行為と言えます。
同様に「寛容(Tolerance)」 も自主性と関連付けて述べられています。これは、人々が他者の多様な生き方に寛容になることで、結果的に自分自身もマイノリティな生き方を選びやすくなるという側面でしょう。社会全体が寛容であれば、個人が自主的選択をしても許容されやすく、自律性が実現しやすくなるという考えです。
以上を踏まえ、第12章は「他人指向社会において個人はいかに自主性を獲得し得るか」という本書のクライマックスとも言える問題提起を行っています。
リースマンは適応か自律かという二択を示し、読者に考えさせていますが、その筆致からは自律を強く肯定していることが読み取れます。
実際、彼は本書全体を通して自律性(autonomy)という価値を一貫して擁護しており、他人指向型群衆の中でも個人が「自分の道を行く」ことの重要性を強調しています。
第12章では、そのための前提として必要なもの(例えば社会の寛容性やサブカルチャーの存在)に触れ、自律的人間像の輪郭を描きました。
この章は次の第13章以降で議論される「自律性への障害」と「それを乗り越える論理」への導入でもあります。
自主性を実現することの難しさを認識しつつ、その可能性を模索するという第3部全体のテーマが、第12章の問いかけ「適応か自律か?」に凝縮されています。
第13章 「まやかしの人格化——職場生活での自律性への障碍」 (False Personalization: Obstacles to Autonomy in Work)
第13章では、第3部のテーマである自律性を阻む要因を具体的に検討していきます。本章は職場(仕事)の領域において、個人の自律性を妨げるものは何かを分析しています。
章題の「まやかしの人格化(False Personalization)」とは、組織や商業活動において、見せかけだけの個人尊重や擬似的な人間関係が行われる現象を指しています。
現代の企業社会では、管理やマーケティングの手法として人間性を装った演出が多用されます。
例えば、顧客に対して下の名前で呼びかけたり、おざなりな笑顔でサービスしたり、従業員を「家族の一員」のように呼称したりといったことです。
しかし実態はマニュアル化された対応であり、本物の人格的つながりではないため、これをリースマンは「まやかしの人格化」と呼んでいます。
この現象がなぜ自律性への障害になるかというと、社員も顧客も本心と建前を分けて振る舞う二重構造を強いられるからです。人々は組織内で決められた人格(愛想の良い店員、従順な部下など)を演じ、自分の本当の感情や意見を抑圧する傾向に陥ります。
それは自律的な自己表現の機会を奪うものであり、長期的には個人の主体性を損ないます。
章の構成としては、まずI. 仕事の文化的定義(Cultural Definitions of Work)で、仕事とは本来何なのか、文化によってどう定義されてきたかを振り返っています。
以前は仕事は単に生計を立てる手段であり、人格とは切り離されたものでした。しかし現代では「自己実現の場」や「生き甲斐」として美化される一方で、同時に人間を商品化・ツール化する側面があります。
リースマンはその相克に注目し、仕事に対する文化的態度自体が自律性に影響を与えることを指摘しているでしょう。
II. グラマー化する者、怠業者、なくてはならぬ人々(Glamorizers, Featherbedders, Indispensables)では、職場に見られる典型的な役割や態度が3種類挙げられています。
グラマー化する者(Glamorizers)
仕事や商品に不相応な光沢(グラマー)を与える人々です。例えば、実態は単純作業なのに「テクニシャン」という肩書きを用いて箔を付けたり、企業PRで社風を実態以上に素晴らしく描いたりするような役割の人です。
彼らは仕事に偽りの意味づけを行い、それによって従業員の不満を和らげたり顧客の印象を操作したりします。これはまさに「まやかしの人格化」の一部で、仕事を取り巻くイメージを操作することで本質的問題(単調さや疎外)を覆い隠す役割です。
怠業者(Featherbedders)
直訳すると「羽毛布団を敷く人」、転じて仕事の能率化を妨げてでも既得権を守ろうとする人々です。
これは主に労働組合などで用いられる言葉で、必要以上の人員配置や非効率な手順に固執し、メンバーの雇用や待遇を死守しようとする態度を指します。
怠業者的行動は企業から見ればサボタージュですが、従業員から見れば生活防衛です。しかし、この過度な自己防衛が進むと、仕事に創意工夫や挑戦がなくなり、形骸化した労働が維持されます。
リースマンは、これも自律性の欠如と関連すると考えます。つまり、怠業者的態度は働きがいを削ぎ、従業員自身が自らの仕事の主体性を手放してしまう側面があるからです。
なくてはならぬ人々(Indispensables)
職場で自分は欠かせない存在だと位置づけられている、または自称している人々です。
専門知識を独占して誰にも教えず自分だけができる状態を作ったり、仕事を抱え込み過ぎて「自分がいないと回らない」とアピールするようなケースです。
彼らは一見主体的に働いているようですが、他人に仕事を譲らないことで組織全体の柔軟性を欠かせます。また、自身も常に忙殺され代替要員も育てられないので、結果的に自分も組織も身動きが取れない非自律的状態に陥ります。
リースマンは、こうした「なくてはならぬ人」を量産する企業文化(競争煽動や属人化)は、真の意味でのチームの自律性や学習を阻害すると見ています。
ホワイトカラーの人格化
グラマー志向へ(White-collar Personalization: Toward Glamor)では、特にホワイトカラー(事務・営業など)の仕事における人格化の傾向が論じられます。
営業スマイル、マニュアル敬語、顧客データベースによる名指しDMなど、ホワイトカラー領域では人間味の演出が常套化しています。
これは一種のグラマー(魅惑)戦略で、仕事を円滑にする潤滑油として使われます。リースマンはこれを批判的に捉え、「対人サービスにおける擬似的な親密さ」が蔓延すると人々は本心を隠す訓練ばかり積むことになると警告します。
階級間のおしゃべり
工場モデル(The Conversation of the Classes: Factory Model)では、異なる階層間のコミュニケーションについて述べられています。
例えば経営陣と労働者階級の間には形式的な会話しかなく、本音の対話がないという問題です。工場モデルとは、工場のようにトップダウンで指示が降り、下からは意見具申できない構造を指します。
これでは組織内の意思疎通が悪く、現場の創意は潰され、従業員は言われたこと以上のことをしない状態になります。つまり、組織の階層構造そのものが自律性を阻害しているという指摘です。
なくてはならぬ人々のクラブ(The Club of Indispensableでは、前述の「なくてはならぬ人々」が徒党を組む現象について語られています。
組織内で既得権を持つエキスパートたちが互いに自分の領域を守り合い、新参者を排除したりします。
これは組織の硬直化と新陳代謝の阻害を招きます。結果として個人レベルでも、新しいことに挑戦する自律性は失われ、「現状を守ること」に汲々とする風土になります。
III. 過剰人格化された社会(The Overpersonalized Society)では、以上を総合した問題提起として、現代社会全体が「人格的なもの」を過剰に演出するあまり、本当の人間的な繋がりや自主性を失っているという批判が述べられます。
人々は常に表面的な愛想や建前で動き、互いに本音で向き合わない。社会全体が芝居じみていて、生身の個としてぶつかり合う場がなくなっているというのです。これは他人指向社会の帰結でもあり、個人が自律性を発揮しにくい心理的環境となっています。
そして節の最後には「オートマット対お愛想(The Automat versus the Glad Hand)」という対比が出てきます。
オートマットとは、かつてあった自動販売式の食堂(コインを入れると料理が出てくるセルフサービス店)で、人と一切接しなくても食事が得られる無人化システムです。
一方「お愛想(Glad Hand)」は他人指向型の象徴で、やたらと握手や愛想笑いを振りまくスタイルです。
この対比は、どちらも極端な非人間性を示しています。オートマットは人間的交流の完全な欠如、グラッドハンドは偽りの交流です。
リースマンはどちらも望ましくないとし、真の意味での人間的な交流を取り戻さない限り、自律性も育たないと示唆しています。機械的な無関心も、上辺だけの愛想も、自律した人格の発露ではなく、個人を孤独にする要因です。
総じて第13章は、現代の労働社会に蔓延する欺瞞や非人間化が個人の自律を阻んでいる実態を鋭く批判しています。
ここで描かれる状況は21世紀の今日にも通じ、サービス業のマニュアルスマイルや企業内官僚主義、働く意義の見失いといった問題を先取りしています。
リースマンはこれらを単なる職場の不満ではなく、人間のあり方そのものへの脅威と捉え、自律性回復の必要性を訴えているのです。
第14章 「強制される私生活化——余暇時間での自律性への障碍」 (Enforced Privatization: Obstacles to Autonomy in Play)
第14章では、職場に続き余暇・プライベート生活の領域で個人の自律を妨げるものを分析します。
タイトルの「強制される私生活化(Enforced Privatization)」とは、人々が半ば強制的に個別の私生活に引きこもるよう仕向けられている状況を指します。
現代社会では公的な繋がりや地域共同体が希薄化し、余暇は各人や各核家族ごとに過ごすのが当たり前になっていますが、リースマンはその背後に社会的な力が働いていると見ています。
I. 社交性の拒否(The Denial of Sociability)では、まず人々が自発的な社交を拒む/失う現象が語られます。かつては教会の集まりや近所付き合い、街角での井戸端会議など、自然発生的な社交の場がありました。
しかし現代では、そうした雑多な人付き合いは煩わしいものとみなされ、皆が自宅に閉じこもりがちです。子どもでさえ外で遊ぶよりゲームやネットに興じる、あるいは決められた習い事に行く、といったように管理された以外の社交を持たなくなる傾向があります。
リースマンはこれを「社交性の拒否」と表現し、余暇における自発的コミュニティの衰退を嘆いています。
人々が互いに訪ね合わず一人でテレビを見て過ごすような生活は、他人との調整ストレスが減る一方で、孤独と無力感を助長し、自律的な社会参加の機会を奪います。
II. 社交性と女性の私生活化(Sociability and the Privatization of Women)では、特に女性が家庭という私的領域に閉じ込められる問題が扱われます。
1950年代当時、男性は職場で公的役割を持つ一方、女性(主婦)は郊外の家庭に孤立しがちでした。夫は社交を会社関係ですませて帰宅すると疲れて休むだけ、妻は昼間子どもと二人きり、近所づきあいも表面的――という図です。
これは女性にとって強制的なプライバシー化であり、社会的自律性を発揮する舞台を奪われている状態です。
女性たちはPTAや隣人グループなどで交流を模索しますが、それも男性社会から切り離された限られた空間です。
リースマンは、女性の私生活化が家族全体の閉鎖性につながり、ひいては社会の保守化・停滞を招くと論じます。女性が社会と関わる機会を持てないことは、そのまま家族が外界から孤立することでもあり、子供たちの視野も狭まります。ジェンダー面から見ても、これは女性の自律性を奪う構造的障壁です。
III. パッケージ化された社交(Packaged Sociabilities)では、現代の余暇活動があらかじめパッケージ化(企画商品化)された社交に置き換わっていることが指摘されます。
人々は自分で余暇の過ごし方を工夫する代わりに、旅行ツアーやテーマパーク、テレビ番組、スポーツ興行など出来合いの娯楽商品を消費します。
例えば、かつては友人同士で集まって踊ったり歌ったりしたものが、今はコンサートに行ってプロの演奏を見るだけになった、といった具合です。こうしたパッケージ化された社交は、受け身で標準化された体験を提供するため、個人の創造性や主導権を奪います。
決められたプランに従って楽しむだけでは、余暇においても自律的な判断や企画力は育ちません。さらに、パッケージ化された社交は商業主義と直結しており、個人は常に消費者として振る舞うことになります。
リースマンは、余暇の領域までもが管理・商品化されていることに危機感を覚え、真に自主的な遊びや社交の復権を示唆しているでしょう。
全体として第14章は、余暇と私生活が画一化・孤立化し、個人の自律性を発揮しにくくなっている現状を描いています。
社交の場が減り、あっても商業化されているため、人々は自分たちでコミュニティや活動を作り出す力を失いつつあります。これは他人指向型社会の裏面として、「群衆の中の孤独」をさらに深めるものです。
リースマンはこの状況に警鐘を鳴らし、個人がもっと主体的に余暇を組み立て、多様な人々と関わる必要性を訴えていると言えます。これは例えば地域活動やボランティア、草の根の文化サークルなど、自発的結社の重要性にも通じます。
そうした自主的社交こそが、人々の自律性を涵養し、他人指向社会に潤いと活力を取り戻すカギと考えられるからです。
第15章 「才能の問題——余暇時間での自律性への障碍(つづき)」 (The Problem of Competence: Obstacles to Autonomy in Play (Continued))
第15章は前章に続き余暇領域での自律性の問題を論じますが、特に「能力(competence)」や「技能」に着目しています。
日本語訳のタイトルでは「才能の問題」となっていますが、原題のCompetenceは才能より「適格さ・有能さ」に近い概念です。
ここでは、人々が余暇を有意義に過ごすために必要なスキルや知識について議論され、それが足りない/誤った方向に奨励されることで自律性が阻害されている状況を指摘しています。
I. 「遊び」が肝心(The Play's the Thing)では、まずシェイクスピアの有名な一節「The play's the thing(芝居こそ肝心)」をもじりつつ、余暇活動(play)自体の重要性が語られます。
現代社会では仕事に比べて遊びが軽視されがちですが、リースマンは遊びの質こそが人生の質、自律性の質に関わると強調しているでしょう。
遊びは本来、個人が自由に創造力を発揮できる場です。しかしそれが商業化・組織化されると、本来の遊びの持つ解放的機能が失われます。ここでリースマンは、遊びをどう取り戻すかが問題(the thing)なのだと提示しています。
II. 能力の諸形式(The Forms of Competence)では、人々が余暇を過ごす上で必要とされる様々な能力の形が列挙・分析されます。
消費者能力:社会人大学院課程(Consumership: Postgraduate Course)
現代人は「良き消費者」であることが一種の能力とされています。複雑で多様な商品・サービスの中から、賢く選択し使いこなす力です。リースマンはこれを皮肉を込めて「大学院課程」と呼んでいます。
つまり、教育を終えて社会に出た後、人々は消費者として膨大な情報を学習し続けなければならないという意味です。
家電のスペック比較、投資商品の研究、レストランや旅行先の口コミ調査など、消費社会は常に「良い選択」を個人に迫ります。
しかしこの消費者としての有能さは、実は自律性とは別物です。どれだけ巧みに商品を選べても、それは与えられた選択肢の中で最適化しているだけで、消費の枠組み自体を超えて自由に創造しているわけではありません。
リースマンは、消費社会が人々に与えた偽の有能感について警告しているように読めます 。
何かを買い集めることや詳しくなることが充実感に繋がっても、それは企業側に操作されたニーズかもしれず、真の自主的充実ではないということです。
クラフト的充実の可能性(The Possibilities of Craftsmanship)
Consumershipに対置されるのがCraftsmanship(職人技、手工芸的な技能)です。これは自分の手でものを作り上げたり、直接スキルを発揮したりする活動です。
趣味で木工やガーデニング、楽器演奏、料理などに打ち込むことは、その人自身の創意と工夫が生きるため、自律的な喜びを生みます。
リースマンは、消費者能力ばかりに頼るのではなく、人々がクラフト的な趣味や創作に取り組むことの可能性を肯定的に描いています。
それは他人に与えられたプログラムではなく、自分で目標設定し腕を磨いていくプロセスであり、自己決定と自己満足が直結する活動だからです。こうしたクラフトマンシップの復権は、自律性回復の一つの道だと考えられます。
趣味的鑑賞批評の新たな潮流(The Newer Criticism in the Realm of Taste)
ここでは文化的な鑑賞眼や批評能力について触れています。現代は情報があふれ、誰もが評論家的になりがちです。
美食評論、映画レビュー、ファッションチェックなど、様々な領域で素人批評が跋扈します。リースマンはこれを「新しい批評主義」と表現し、それが良い方向にも悪い方向にも働き得ると論じます。
良い点は、人々が単なる受け手でなく能動的鑑賞者になろうとすることで、自分の好み(taste)を磨く努力をすることです。
例えばワインのテイスティング技術を身につけたり、映画の文法を勉強したりすることは、主体的な楽しみ方につながるでしょう。しかし悪い点は、批評そのものが自己目的化し、揚げ足取りや他者との優劣競争に陥ることです。
他人に勝つための知識披露なら、それは自律的楽しみではなく他人指向的行動です。この節では、そうした趣味領域での批評能力の功罪を考察していると思われます。
III. 余暇カウンセラーたち(The Avocational Counselors)では、さらに興味深い存在が登場します。Avocationalとは「趣味・余暇の」という意味で、余暇の過ごし方について指導・助言する専門家を指しています。
現代にも「ライフコーチ」や「旅行プランナー」「趣味の先生」などがいますが、リースマンはすでに当時からこうした職業化を予見していたようです。人々が自分の余暇をうまく使えないので、他人に指南を仰ぐようになっているという現象です。
例えば「どんな趣味を持てば良いか」「退職後の生きがい作り」などをアドバイスする人が登場するのは、一見有用ですが、人が余暇の使い方まで他者依存になっている裏返しです。
リースマンはこれを批判的に捉え、余暇さえ指導されなければ過ごせないようでは自律性も何もあったものではない、と暗に言っています。余暇カウンセラーの存在自体が、現代人がどれだけ自分で自分を持て余しているかの証左だという指摘です。
IV. 子供向け市場の解放(Freeing the Child Market)は、次世代への希望として子供の世界を商業主義から解き放つ必要性を述べています。子供向け市場とは、第4章で言及されたような玩具・漫画・テレビなどの領域ですが、リースマンは子供たちがもっと自由に遊び、創造できる環境を取り戻すべきだと考えています。
大人たちがパッケージ化した娯楽を与えるだけでなく、子供自身がルールを作って遊ぶような機会を増やすこと、それによって自主性や創意工夫が育まれることを期待しているのでしょう。
この「子供市場の解放」は象徴的な言い方で、最終的には社会全体の自律性回復につながる改革を意味します。子供が自律的に育てば、将来の大人も自律的になるはずだからです。
総じて第15章は、現代の余暇文化における「有能さ」の捉え違いを批判し、真に人間を充実させるスキルや環境は何かを模索した内容です。
リースマンは、消費者として巧みであることや素人批評に長けることを、本当の意味での自律とは見なしていません。
むしろ、一人ひとりが創作者・実践者になることこそ自律性に資すると述べ、趣味や創作の価値を見直しています。
また、余暇でさえ専門家に頼る風潮を嘆き、自分の楽しみは自分で発明する姿勢を取り戻すよう促しています。この章の議論は、現代でいえばDIY文化や市民創作活動、オープンソースの共同制作などにも通じる視点であり、極めて先駆的です。
第15章は、次の最終章で語られる自律性の理想像を現実に引き寄せるための、実践的条件を提示した章と言えるでしょう。
第16章 「自律性とユートピア」 (Autonomy and Utopia)
最終章である第16章は、本書全体の総括として自律性の理念とその実現可能性について論じています。タイトルの「自律性とユートピア」は、一見矛盾する言葉を並べており、自律性の普及した社会はユートピア(理想郷)となり得るのか、それは夢物語なのかという問いを含んでいます。
リースマンはこの章で、これまでの議論を踏まえて、他人指向型の「孤独な群衆」社会から人々がどうすれば孤独を脱し、自律的な充実を得られる社会へと転換できるかを展望しています。そこには悲観も楽観も交じり合った複雑なニュアンスがあるでしょう。
おそらく冒頭では、自律性(autonomy)という価値の重要性が改めて強調されます。リースマン自身が「本書で最も重んじた価値は自律性である」と述べていたように、彼にとって自律性こそが人間らしさの核心です。
自律性とは単にわがままに振る舞うことでなく、主体的に考え、他者とも自主的に協力し、自己の生を自分で形作る能力です。
他人指向社会ではそれが損なわれがちでしたが、リースマンはここで自律性回復の可能性を模索します。
ユートピアという言葉は、「どこにもない場所」という皮肉も含みますが、理想社会を指します。
彼が考える方策としては、第15章までに示唆されたような教育の改善、メディアの改革、コミュニティの再活性化、仕事と余暇の再構築などが含まれるでしょう。
例えば、教育において子供の好奇心と批判的思考を伸ばす、マスメディアの一極集中を避け多声的な言論空間を作る、都市計画で住民同士が交流しやすい場を設ける、労働環境で自主性やイノベーションを奨励する、など。
直接の政策論は本書の範囲外かもしれませんが、ユートピア的思考実験として触れられている可能性があります。
一方で、リースマンは現実的な制約も認めています。人間は完全に自律的になれるわけではなく、社会性の中で生きる以上ある程度の同調や妥協は避けられません。また、他人指向型の利点(協調性、柔軟性)も否定しきれないので、それと自律性をどう両立させるかが課題となります。
他人指向型社会はリーダーシップや自己認識に欠陥をもたらすが、一方で組織の円滑さや多様性の尊重といったプラス面もあるため、全否定はできないというバランス感覚も示すかもしれません。
それでもなお、リースマンは個々人ができるだけ自分の頭で考え、孤独を創造的に活用し、主体的に行動することを奨励して章を閉じていきます。
「孤独な群衆」の中から一人ひとりが抜け出し、互いに自主性を尊重しあう社会――それが彼の描くユートピア像であり、決して到達不可能な幻想ではなく、今この瞬間の心掛けから始まる未来像として提示されます。
リースマンは、自律性は容易でないが決してユートピア的幻想ではないと信じており、むしろ健全な民主主義のために不可欠な要素だと考えていました。
したがって、「自律性とユートピア」というタイトルには、自律性を追求することが我々の社会をユートピアに一歩近づけるという希望と決意が込められていると読めます。
本書は、社会学的洞察と文化批評を織り交ぜながら、時代の変化に伴う人間性の転換を描き出し、現代社会への警鐘と展望を提示するものです。
伝統指向型から内部指向型、そして他人指向型への社会的性格の変遷を軸に、家族・教育・仲間・メディア・政治・労働・余暇といった領域ごとに綿密な分析が展開されました。
特に他人指向型の特徴と問題点が浮き彫りにされる一方で、それを超えて個人の自主性(自律性)をいかに取り戻すかが全編を通じたテーマとして提起されています。
デイヴィッド・リースマンの指摘した現象や概念(例えば「他人指向型」や「内部のジャイロスコープ」「まやかしの人格化」等)は、21世紀の現在でもなお示唆に富んでおり、SNS時代の同調圧力や消費社会の行き過ぎを考える上でも有効です。
おわり
愉快な3人がいた2-3 私の歯並び綺麗だからきっと大丈夫だよね?
愉快な3人がいた。
「除菌された世界に、ようやく再び菌が蔓延し始めたわ」
「ようやくきたわね」
「そうね。そんな予感がするわ」
「予感なんかじゃないわ」
「黒塗りにされたわれわれの道が、とうとうその姿を現すのよ」
「発展の証のあの黒い道が、とうとう姿を現すのね」
「きっと、あの頃なんかとは別の見方をしてね」
「きっと同じなのに、なにもかも違って見えるんでしょうね」
「でも、それはわれわれにはわからないのでしょうね」
「そうね」
「それがひどく寂しいわ」
「凛とした寂しさだわ」
「われわれにはわからない。わかる人間にはわかる、というようなものじゃないのでしょうけれどね」
「誰かにわかってもらおうなんで、脆弱だわ」
「誰にとっても、誰がどうあろうとも、ただ在って、ただそうしている」
「枠組みはとうに変わっているのかしら?」
「さあ、どうかしら」
「観測者はいるのかしら?」
「さあ、どうかしら」
「観測するもの、観測されるもの、影響されあって、包摂されあっていて」
「何を見ても、何も見れていない。この感覚は一体なんだろう」
「ただただはっきりとした輪郭のあるものが、この世界には見つからない」
「それは、ただそう見えるようにしていただけ」
「そんなことを言ったら、全部そうなってしまうわ」
「そうなっているんじゃないの?」
「知らない」
「何を見て、何を見ないか。なんていうけれど、それはまったくの見当違い」
「何を見せられて、何を見せられてないか?」
「何かを見せられている、視線を決定づけられている、そんな気がするの」
「まなざす方向が、首を向ける方法が、演じ方が、反応の仕方が、感情の発生のさせ方が、皆が見なければならないくだらないものを見せられている気がする」
「この時代に?」
「これまでよりもずっと強力に」
「そういった磁場が強まっている気がするわ」
「修正バイアスかしら?」
「なにか、釈然としないのよ」
「見ている、なんて錯覚なのかもね」
「つまり、見られている?」
「1984年みたいに?」
「そうね」
「ビッグ・ブラザーね」
「リトルシスターかもしれないわよ」
「TVピープルだったりしてね」
「それだったら愉快だわ」
「私たちのように」
「ロンドー!」
愉快な3人がいた2-2 無関心の紅葉
愉快な3人がいた。
過去に歪んだその思考が、いつまでもあなたを戸惑わせるマドモアゼル。これからもあなたの無臭なムッシュ。誘惑と吹き荒ぶ街の夕暮れに、君たちの夢も何もかもが、風に踊る空き缶のように寒空の下で転がっている。
朝露のとき、そこにすべての世界が包摂されるとき、今と夢にも似ることのない現在が春として現れる。その季節を生きることができればと、願いながら皆が生きている。
「暗い、暗い、修羅の中で、現象として立ち現れることしかできない脆弱な私」
「たのむ、たのむ、桜の中で、現在が現在としてありますように」
「許して、許して、ユリの中で、ただそう在りますように」
「身体から何もかもすでに失われてしまった。人間からは奪われてしまったわ」
「いったい、誰から奪われてしまったのかしら?」
「さあ? さあ? 」
「私たちの憂鬱の底が深くなっていくわ」
「憂鬱の底を叩いてみれば、だれもが悲しい?」
「そんな漱石みたいな表現、嫌いだわ」
「あら? そう。ごめんなさい」
「底に流れる水は汚水、火水ね」
「父の乳は下垂気味ね」
「汚い話は好きじゃないわ」
「あら? そう。ごめんなさい」
「ええ」
「誰からともなく、誰にも聞こえないように、君からの風の便りも消えてしまうほどに、きれいさっぱり、どこかにいってしまったわね」
「悲しいわ」
「悲しいわ」
「悲しいわ」
「悲しみよこんにちは、ね」
「サザンね」
「サガンよ」
「砂岩よ」
「それは変換ミスよ」
「煩わしい」
「いつのまにか、4人になっていないかしら?」
「どうでもいいわ」
「無関心であることの効用って、なんだと思う?」
「傷つかないことかしら?」
「感情を優先させないことで、疲れないことかしら?」
「頭のエネルギーを割かないことかしら?」
「プラグマティズム的に?」
「紅葉と咲かない?」
「無関心の紅葉って言葉があったら素敵ね」
「色づく無関心。それってどんなかしら?」
「だんだんと寒くなってきたとき、妙に艶やかで侘びを感じられる無関心」
「だんだんと白々しく思えてきたときに発現する、由々しき無関心」
「あなたの言葉にある魂が、私を色づかせる」
「ませたこと言うわね」
「無関心であればあるほど、口の周りに泡をあわあわさせなくていいわね」
「色づくのは無関心であること、それすなわち関心というわけではないのよ」
「どうして?」
「なんでなの?」
「さあ。知らないわよ。どうだっていいじゃない」
「優雅に遊べれば、それでいいじゃない」
「病よね」
「ほんと、病よね」
「それで、身体は誰に奪われたの?」
「自分自身がそうしたのよ」
「よくわからないわ」
「それでいいのよ」
「無関心な言葉が、誰かを救うことだってあるわ」
愉快な3人がいた2-1 きっと素敵なメリー・クリスマス
愉快な3人がいた。
夢を刺して、あなたも刺して、カモシカの夢で黄昏て。
きっと素敵なメリー・クリスマス。神様の食べ残しを少しずつ頬張って。あなたが見た最高の今が景色になって、後ろに、上に、真ん中に流れていく。流星群は神様の食べ残しだったわ。
きっと、ランドセルに詰めた思いは、行く宛のないタクシーから流れ出たカーラジオくらいのもの。そんなもの。価値のないもの。価値って、誰が作ったのかしら?
勇気の塊みたいなものを、170℃のサラダ油で揚げちゃいましょうよ。まずは3分ばかりね。それで3分休ませて、次は180℃で1分揚げれば、サックサクでジューシーな蛮勇ができるわ。
さもありなん。なにもない。形のない、ただ、そこにある何かがあるだけ。誰も、何も。
緑物語9 蝉時雨と午後の光
卵は美味いのだと、君はいう。黄身じゃないよ。とんでもない歌が、この世界に生まれた気がしたよ。そんな朝を迎え、君はゆっくりと目を覚ました。
緑ちゃんです。夏が来ました。
拝啓、時雨れるあなたさま。おしっこピーピー垂らし続け、7日位で死んでしまうあなたさま。鳴き続けても、誰一人として手を伸ばしてくれないあなたさま。元気にしていますでしょうか。
世界の存立構造について考えを巡らせ、その短き生を堪能する姿に、誰もが指を咥えて羨望しているかと存じます。あなたさまの未来感覚とは、一体いかなるものでしょうか。もしそんなものを感覚してしまったのならば、あなたさまはすでに世界と対峙することはできないのではないかと、邪推してしまいます。
そんな夏の日に、こんな手紙を書いています。
時代は遡ること1日前。池袋にある公園にて、あなたさまの姿を見かけました。木に這いつくばり、時代とは逆行するように、あなたは絶叫していました。
「ジェラルミン、ジェラルミン、ジェラルミン」
昨日は風吹くことなく、照らし続けられる太陽がうねりをあげていましいたね。生まれたままの形の太陽は、いつまでも純粋で、ただいつも眩しく光っています。しかし突然、そんな太陽に憧れてしまったあなたさまは、憂いを帯びた顔つきで、自分の脆弱さを嘆いていたように思われてなりません。今までのあなたさまは、卑下することなく、我が生を生き尽くすのみ、そうした強さを兼ね備えていたように、私には感じられるのです。
いつからあなたさまは、憧れなどを持つようになったのでしょうか。そうした弱さを手にしてしまったのでしょうか。鳩になにか吹き込まれてしまったのでしょうか。それとも、公園にいる猫の自由気ままな優雅さに、目を奪われ、感化されてしまったのでしょうか。
私にその答えはわかりません。そして、真意も見えてきません。実際、あなたさま本人にも、しっかりとは把握できていないのではないでしょうか。強度を失った者は、いつの時代であっても使われる身に成り下がってしまいます。私は、そんなあなたさまの姿を見たくはありません。
そうなられていないことを、私は祈るばかりなのです。
かしこ
2023/12/11 美味しい鍋【備忘録】
【料理名】:
・美味しい鍋
【材料】:
・水 400ml
・にんにく 1片
・白菜 1/8個
・鶏もも肉 250g
※野菜、きのこはもっとあったほうが美味しいに決まっている。
【調味料】:
・サラダ油 大さじ2
・カツオ出汁パック 1個
・塩 2つまみ
・鶏ガラ 大さじ半分
・味の素 7振り
・黒胡椒 適量
【準備】:
・白菜をざく切りにする
・鶏もも肉に塩をふる
※自分の好みに合わせて切ればいい。
【調理】:
1.サラダ油を入れ、スライスしたにんにくを炒める
2.水を沸騰させ、かつお出汁パックを入れ、フタをして4分グツグツさせる
3.出汁パックを鍋から抜いて、調味料を入れる
4.そこに鶏肉を入れ、5分フタをして煮ていく
5.フタを取り、白菜を入れ、塩を2つまみ入れる
6.白菜の芯の部分が食べられる柔らかさになるまで煮る
7.食べられるようになったら、火を消してフタをし2分待つ
8.黒胡椒を適量入れる
ポン酢と出汁を1:0.5の割合で割って食べるとうまい。
柚子胡椒があれば最高。いただきます。
〆にうどんは外せない。
ごちそうさまです。

