9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

この世界で

日常のどうでもいい些細な仕事のことに頭を悩ませる。つまらん。本当につまらん。どいつもこいつも、つまらん。人間としての面白みがない。雑魚ばっか。

 


わかりやすい(多くの人が理解しやすいと思っている)表現をわかりやすいと思い込むかわいい人たち。愛すべき群像。

 


さよならをみんなここに捨てにくるから

 


夢のような月が錆びた

 


ルッキズムから解放されたいんじゃなくて、ルッキズムの中で報われたい。

 


ルッキズムから解放されたいんじゃなくて、ルッキズムの中で祝福されたい。

 


この上の2つは、誰の文章だったっけ。

 


強度の無い合理性

 


夢が迎えに来てくれるまで、震えて待て

 


いつだって今日が果てしない

 


心が派手

 


実存を手放すな

 


さして面白くもないことを、どうやって楽しむか。そこに気づいたときから、人の世はいよいよ面白くなってくる。

 


小さき娘が、母の元に駆ける。母は娘を抱き、切り揃った前髪に口づけをする。桜の木の下で。柔らかく、温かい陽が、二人を染め抜く。娘の笑い声がする。

屋敷に向かっていく。日陰を歩く。老人の隣で電車を待つ。電車に揺れる。そして、思い出す。叱られた日々を。淋しくなった。あの桜の木が切り倒された。切り株には、二本の斧が振り下ろされていた。私は泣いた。切り倒された桜の木の向こうに見える山々が、恨めしかった。

私に思い出すことなど、もうない。

淡い月明かりで、世界が薄青に染まる。

 


これから何をしようかと考えている。これからは、何かを考えるときは、文章を書きながら考えることにする。だから、体裁の整わない文章が、生成されていくと予想される。予想はどのようにして可能になっているのか。経験、統計、弱さや感情にも影響されてくるのか。人間が予想する場合には、そうなのだろう。

文章を書いて、生活していけたらと思う。書き続ければ、そうなれるのだろうか。わからないが、やってみるほかないのである。運に任せてみるのも悪くないと、最近そう思えるようになってきた。

 


喫煙所にて、これを書いている。7人が煙草を吸っている。自分を含めると8人。1人出ていき、また1人入ってくる。循環する。煙が登る。狼煙を挙げ、ここにいると、表明したら気持ちがいいだろうか。今こうしているときも、生きているということを忘れたくない。

 


文章を書くとき、少し憂鬱な気持ちになることがある。以前にも書いたことのある、同じような文章を書いてしまうのではないかと感じてしまうからである。色んな本を読み、色んな本から影響を受ければ、色々な文章を書けるようになるのだろうか。まずはやはり、マネをしてみるのがよさそうである。今は、スマホで書いている。スマホで書くのと、パソコンで書くのと、手書きで書くのでは、書く内容は同じでも、表現や一文の長さが、かなり違ってくる。何で書くか。道具というものから人間が受ける影響というのは、凄まじいものがある。

 


どんな文章を書きたいのか、それを見つけるために、こうして文章を書いてる。エッセイを書きたいのか、物語を書きたいのか。おそらく、両方である。

 


本に、読書に、自分の実存を確かめに。

 

固定観念を持つことの有用性

固定観念を持つことは一般的に悪とされている。固定観念を捨て、物事をフラットに見ることが重要である。何にとって重要なのか。それは例えば、人との関係性である。固定観念を無くすことが、偏見や差別をなくすための手段として、有用である。また例えば、ビジネスにおいて、これまでの固定観念を取り払い、新たなイノベーションを生み出すために、有用である。

おそらく、どちらも本当のように感じられる。ただ、固定観念を持たないように生きていくのは無理であり、毛嫌いせずに、上手く付き合っていこうという選択を取る方が、何かと生きやすくなるのではないかと思っている。

固定観念を持つことで広がる世界がある。世界を自分の好きなフレームに飾り、そこを覗く楽しみというものがある。そのフレームをたくさん持っておけばいい。自分のまなざしは、自分で決めていい。今まで見たことのあるものでも、新しいまなざしを手に入れたのなら、また見にいけばいい。それは場所でも、人でも、物語でも、概念でも、本でもいい。

また、固定観念は、個人の過去の経験的なものに基づき形成されていると思われるため、意思決定をする際には、過去を参照することで、意思決定が行いやすくなったりする。

その他にも、安全性の確保やコミュニティの結束(排除につながる原因にもなるが)、秩序や専門性の担保など、色々と有用性は挙げられる。

と、固定観念の有用性について書いてきたが、本心を晒せば、結構どうでもよい。なぜか固定観念の有用性について書きたくなった。書きたい対象がたまたま固定観念であっただけで、気まぐれである。別に語りたいわけではない。ただ少し、ほんの少しだけ、忌み嫌われている固定観念に同情したのかもしれない。

 


ぽりぽりーん!!!!!緑ちゃんだお!!ぱっかぱーん♡夢が現で二十日一!たまにはこうして、サナダムシをモグモグしながらタワシをボロンボロン。

緑ちゃんは目の前を走る電車が好きです。あの鉄の箱に詰め込まれた人々。その実存たちが走っているさまは、なんともいえぬものがありまちゅ。鉄の箱の中で走れや実存。飛べや未来。振り返れば低い声が響く。左回りの時計は壊れてしまったようでちゅね~!ぱりりりりーん!!!

瞑想的な静けさだけが漂う、枯れた精神たちに祝福あれ!!!

たまにはこうして、誘蛾灯に揺れていく蛾のように、秋の始めの涼しさに誘われ泣くのも、ロマンチックでいいかもしれないと、緑ちゃんはしんみりとしちゃったお♡

薬になれなきゃ毒になればいい。ただの水になるな。緑ちゃんの色はどぉぅっちかしら?

 

 「ありえない幕間劇1」

15:30。4階にある喫煙所で煙草を吸った。会社に戻ろうと思い、煙草を灰皿に投げ捨てた。コンビニを左手に見ながらエレベータに向かい、14階を押した。ふと眠気、そして喉に渇きを覚えたので、モンスターが飲みたいと思いながら、会社の自分のデスクに座った。

 


「山森さん」

「なに?」

「モンスター飲みたいです」

「またそんなの飲むの?体に悪いよ」

「それでも、飲みたいんです」

「えー、どうして?」

「そういう人間の方が魅力的でしょう?」

「そんなことないよ」

「そんなことないですよね。僕もそう思ってました」

「ぎゃははははははははははははははははははは!!ウケる!!」

「山森さん、大丈夫ですか?」

「うん、ちょっと暑くて集中できないの。首の冷たいやつ忘れちゃって」

「いや、あのー、そうじゃなくて」

「え?なに?」

「え、あー、さっきの笑い方なんですけど」

「何のこと?そんなのあった?」

「あ、えっと、いや、なかったです。僕の勘違いです」

「お茶飲む?」

「飲みます」

「はい、ちょうだい?」

「え?あ、コップですね。お願いします」

「はぁー、ガキの相手ってどうしてこうも疲れちゃうのかしら」

幕引き

 

デタラメだけで、世界を取り戻す

 


昔は家に帰る道が続いていた。街灯の少ない、暗い道を歩いた。暗闇の中で1人ということが、とても怖かった。街灯の下では、少し安心し、あとちょっとで家だと心を励ました。街灯の下を過ぎれば、また不安になった。その不安が喉元を過ぎる次の街灯までが、とても長く感じられた。人とすれ違うたび、大丈夫だと思い、気が大きくなった。でも、すれ違ったあとは、くたびれた風船みたいに、すぐに気が小さくなり、淋しくなった。「ひとりぼっちが怖いから、ハンパに成長してきた」ブルーハーツ「チェインギャング」

 


人は一生をかけて、自分の時間を消していくのかもしれない。

 


「いなくなる方はいいよね。ずるいよね」

 


見えたままに見ることは、どうしてこうも難しい。

 


夢が漂白されていく。

 


理想を追うものは、現実を追うものである。理想への欲望は、現実への欲望と同じだ。

 


今日の批判しづらい正しさ

 


論理は怖い。自分の気持ち以下のことしか表現できないし、自分の気持ち以上のことを表現してしまう。それも、意図せずにである。言ったあとに、もしくは、誰かに指摘されることで、事後的に気づく。

自分の気持ちを、意図した通りに論理で説明することはできないように思われて仕方がない。

 


主体を生み出す、現実的な基盤の広がり

 


この話、徒花だと思ってたら花が咲いたわ