9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

緑物語4

 緑ちゃんです。おはようございます。今日は曇り空が素敵な1日になりそうです。6月も後半に入り、じめじめとした梅雨の季節です。うめあめー。

 赤ちゃんは世界をどう見ているのか、緑ちゃんはとても興味があります。でも、他の人はあんまり興味がないみたい。興味がないっていうのは、知的関心があんまりないよっていうことと、なにより、そんなことお金にならないってこと。つまんない人間ばっかなのです。お金になるかならないかの価値基準で世界を、対象を、物事を、人を、情緒とかを見たり感覚したり考えたり。そんな枠組みの内では、あらゆるものが疎外されちゃうのに。

 緑ちゃんはとても悲しいのです。悲しいから、こんなことを書くのでしょうか。意味があるかないかなんてどうでもいいことなのに。どうしてそんなものを求めるのかわかりません。求めるからこそ、そこへ疎外されてしまうのです。そして、そこからも疎外されてしまう。そうならない強度を持つことができる人間なんて、ごく一部です。

 そうした強度は、見捨ててしまったほうがいいと思っている緑ちゃんなのです。緑ちゃん的には、ただそこに佇むこと。それだけなのです。佇み続けることなのです。佇み続けるといことは、とても難しいことのように感じます。でも、それなのです。世界を解釈する対象から、佇む場へと変容させるのです。そのためには、物事への結びつき方を変えることが必要なのです。情の緒(いとぐち)を、まるっきる変えてしまいましょう。やり方は簡単です。お風呂に入ったとき、石鹸で身体を洗うと思います。そのとき、手でゆっくりと洗うのです。ゆっくり自分の身体に触るように洗います。そうすると、人間の、そして自分の身体の気味悪さを感じられます。それです。自分の身体の気持ち悪さで思考が弾け飛ぶ感覚がもたらされます。それなのです。そう緑ちゃんは思うのです。本当に、本当に。です。

 


 ボケナスどもめ。貴様らの基準なんて大したことない。デカい顔してんじゃねぇ。緑ちゃんは、自分の不出来を他人のせいにするのが大好きなのです。腹の底でこき下ろしてやります。気分爽快、とはいかないことがほとんどですけどネ。

 自分自身の不甲斐なさを他人になすりつけても、イライラが募るだけです。怒りに燃えるんです。それに自分が萌えちゃうんダヨネ♡緑ちゃんは多動症なので、そのイライラを糧に行動を起こすのです。うりぁ~って感じ。クタバレカスども!って勢いで、すべてを呑み込んでしまう勢いで、猛烈に世界を、自己像を破壊していくのです。クソッタレの世界に唾を吐いてやるのです。虫唾が暴れ回ります。虫さんたちが身体中を駆け巡るのです。虫のヨダレをペロペロしちゃって、キッスなんて照れちゃう♡

 世界が割れて、そこに零れ落ちてしまう。そんな緑ちゃんなのです。

 


 ドストエフスキーの『罪と罰』の最後に、主人公は気づきます。思弁的生活から生活へと移行しなくてはならないと。

緑ちゃんはそれを読み、まさにそれだと思いました。緑ちゃんはとっても賢いので、岩波書店から出ている夏目漱石セット本を買いました。緑ちゃんは生活的生活に取り組もうと考えたのです。まさに天才です。さすが緑ちゃんなのです。

 


 緑ちゃんはよく考えます。緑ちゃんにとっての支えってなんなんだろうかなーって。そうしたものを必要としてしまう自分に対して、イヤになることが多いのですが、欲しているというのもまた、その通りなのです。

 


 さくらんぼは、チェリー。甘酸っぱくて、弾ける。ハンバーガー4つ分くらいかな。

 


 緑ちゃんの旅に、行くあてなどありません。そこにただ、佇む。それだけなのですから。観察されること、観察すること。その中にいること。そのアクターとして。発生する場として。そして、発生させてしまう場として。媒介され、媒介するコトとして、緑ちゃんは佇むのです。