9匹のあひる

不思議な言葉でお話ししましょ

緑物語7 どすえどすえ!

 何をしようか。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。この世界で。

 人は再生する。劇的で悲劇的などんなことがあろうと、日常に馴染んでいく。どんなことがあろうと。人との関わりの中での接する態度も、微細な変化はあれど、そこにヒビが入ってない限り、ただ、続いていく。つつがなく。そう、続いていく。日常へと、侵食していく。日常の文脈に、回収されていく。日常は化物。優しい化物。憎き化物。壊したい化物。でも、戻ってくる化物。なにがどうなろうと、ある化物。変化することはあれど、その変化も、よくわからないけれど、日常になる。

 なんとも不気味な化物。頼り甲斐のある化物。安定し、不安定な化物。慣れるということなのか。張り詰めたものから、弛緩したものへ。化物。ただの化物だよ。ただの化物なんだ。

 


「それはね、化物だよ。ただの化物なんだ。化物なんだよ」

「誰にも見えるのに、だれも見えていない。そこにあるのに、誰にも見えてない。それを見えるようにする人間がいる」

 


 光、音、匂い、湿気。その空気感。未来を閉じ込める。未来を閉じ込めに行こう。

 


 もがき続けた。溺れた。死んでいった。生き溺れながら。

 


 おはぴっぴ。緑ちゃんどすえ!どすえどすえ!崩壊感覚のする日ですね。煙草を吸いながら夢を見てます。なんでもない、誰もが思いつきそうな夢です。つまらないっていいながら、人の顔色を窺う、そんな夢です。そんな夢なんです。そんな夢でしかないのです。

 いつからこんな人間になったのでしょうか。そうです、人間は人間になるのです。

緑物語6 あっぺっぺっぺー

 おはようございます。緑ちゃんですよ。たらったらー。どぅんどぅんどぅん。どぅんどぅんどぅん。ぺっぺっぺー、あっぺっぺっぺー、あっぺっぺーぺー、あっぺっペーペー。

 

 レッチリですわな。

 

 海の蛍ってなんだっけと思いながら、なにも調べません。今日は特にだらだら~です。背中が痛くなるとき、それは背中が痛いときなんです。小さな泉を見つけました。

 

 とにかく、兎にも角。あ、また小さな泉を見つけちゃいました♡てへへ。うんちぶりぶり。くっさ!!くさいですね~。にょろにょろ。みみずのミミズ腫れ。みみず晴れ。

 

緑物語5 あの入道雲

あの入道雲

おはようございます。緑ちゃんですよ。今日は晴れてます。さんさんサンバ!サンバ!「時をかける少女」が7/7~7/20に全国の映画館で上映されますね。アニメのやつ。いっけぇ~ってやつ。うれぴうれぴ。にゃん。はにゃっ!?トマトが潰れる音がしました。←(゜Д゜)ハァ?

あの夏っていう感じの雲ね。あの入道雲の白が美しいのよね。感動しちゃうんだもんね。はっきりしなさと、あの清々しいまでのはっきりさ。それを仲介する空。その風景がとても綺麗なんだワ。変わらないものを探して、変わりゆく時代と風景に身を委ねるんだワ。貧しさが明日を運ぶんだワ。ワワワ。和算

緑ちゃんは、もちろん見に行きます。ドキドキ。高鳴る鼓動で地響き。マグニチュード、マグにエチュード。magにétude。あー、緑ちゃんは作曲家になれかもしれません。だってこんなにも   だから。

緑物語4

 緑ちゃんです。おはようございます。今日は曇り空が素敵な1日になりそうです。6月も後半に入り、じめじめとした梅雨の季節です。うめあめー。

 赤ちゃんは世界をどう見ているのか、緑ちゃんはとても興味があります。でも、他の人はあんまり興味がないみたい。興味がないっていうのは、知的関心があんまりないよっていうことと、なにより、そんなことお金にならないってこと。つまんない人間ばっかなのです。お金になるかならないかの価値基準で世界を、対象を、物事を、人を、情緒とかを見たり感覚したり考えたり。そんな枠組みの内では、あらゆるものが疎外されちゃうのに。

 緑ちゃんはとても悲しいのです。悲しいから、こんなことを書くのでしょうか。意味があるかないかなんてどうでもいいことなのに。どうしてそんなものを求めるのかわかりません。求めるからこそ、そこへ疎外されてしまうのです。そして、そこからも疎外されてしまう。そうならない強度を持つことができる人間なんて、ごく一部です。

 そうした強度は、見捨ててしまったほうがいいと思っている緑ちゃんなのです。緑ちゃん的には、ただそこに佇むこと。それだけなのです。佇み続けることなのです。佇み続けるといことは、とても難しいことのように感じます。でも、それなのです。世界を解釈する対象から、佇む場へと変容させるのです。そのためには、物事への結びつき方を変えることが必要なのです。情の緒(いとぐち)を、まるっきる変えてしまいましょう。やり方は簡単です。お風呂に入ったとき、石鹸で身体を洗うと思います。そのとき、手でゆっくりと洗うのです。ゆっくり自分の身体に触るように洗います。そうすると、人間の、そして自分の身体の気味悪さを感じられます。それです。自分の身体の気持ち悪さで思考が弾け飛ぶ感覚がもたらされます。それなのです。そう緑ちゃんは思うのです。本当に、本当に。です。

 


 ボケナスどもめ。貴様らの基準なんて大したことない。デカい顔してんじゃねぇ。緑ちゃんは、自分の不出来を他人のせいにするのが大好きなのです。腹の底でこき下ろしてやります。気分爽快、とはいかないことがほとんどですけどネ。

 自分自身の不甲斐なさを他人になすりつけても、イライラが募るだけです。怒りに燃えるんです。それに自分が萌えちゃうんダヨネ♡緑ちゃんは多動症なので、そのイライラを糧に行動を起こすのです。うりぁ~って感じ。クタバレカスども!って勢いで、すべてを呑み込んでしまう勢いで、猛烈に世界を、自己像を破壊していくのです。クソッタレの世界に唾を吐いてやるのです。虫唾が暴れ回ります。虫さんたちが身体中を駆け巡るのです。虫のヨダレをペロペロしちゃって、キッスなんて照れちゃう♡

 世界が割れて、そこに零れ落ちてしまう。そんな緑ちゃんなのです。

 


 ドストエフスキーの『罪と罰』の最後に、主人公は気づきます。思弁的生活から生活へと移行しなくてはならないと。

緑ちゃんはそれを読み、まさにそれだと思いました。緑ちゃんはとっても賢いので、岩波書店から出ている夏目漱石セット本を買いました。緑ちゃんは生活的生活に取り組もうと考えたのです。まさに天才です。さすが緑ちゃんなのです。

 


 緑ちゃんはよく考えます。緑ちゃんにとっての支えってなんなんだろうかなーって。そうしたものを必要としてしまう自分に対して、イヤになることが多いのですが、欲しているというのもまた、その通りなのです。

 


 さくらんぼは、チェリー。甘酸っぱくて、弾ける。ハンバーガー4つ分くらいかな。

 


 緑ちゃんの旅に、行くあてなどありません。そこにただ、佇む。それだけなのですから。観察されること、観察すること。その中にいること。そのアクターとして。発生する場として。そして、発生させてしまう場として。媒介され、媒介するコトとして、緑ちゃんは佇むのです。

「我思う」って思っても「ゆえに」と続かなければまだ大丈夫だと我思う

ある一つの何かが巨大な鏡になってしまっている。

 

逆立ちした世界。逆立ちする世界。

 

直線として感覚される時間を照射する四季の日々。円環する時間の中に直線する時間が内包されている。生きて、生きて、一つの季節になれたらと思う。

 

人と関わることを通じて、その都度、自己が開花する自在さを踊るのか、それとも、人と関わることでどうしても自己を開示・現出させてしまうのか。存在の牧歌的景色に謳われる自己か、悲しみの果てゆえの自己なのか。他者との関わりにおける幻影。「私という現象は」という宮澤賢治の暴露。春と修羅の季節はめぐるのか。

 

実存の感覚と生活の日常性

 

楽しい嘘の平行線が、晴天の焼け野原に吹く風に穂を揺らす

 

鬱血鬱血、嗚呼、鬱血

 

  の鬱血

緑物語3

緑ちゃんです。

 

私は今日も元気です。血圧の問題から、朝起きたときは芋虫くらい機嫌が悪いけれど、コーヒーを飲み終わる頃には、もうすっかりご機嫌になっています。最近、秋の気配が漂い始めていたけれど、湿気の多い日が続いていたので、除湿の効いた部屋で一日中過ごす日が続きました。フェティッシュについて考えることが多かったと、私はそう思います。

 

近代理性と感情と感覚とアートと皮膚とフェティッシュと色彩について、今一度しっかりと考えていかなければならないと、最近そう考えることが増えてきました。なぜそう考えるのかは、簡単な問題です。私にとっては自明のことなのです。

 

秋だからです。



池袋を歩いていました。巨大な少女が乳首にピアスを開けて歩いていました。ビルの間をすり抜け、股間から透明な汁を流していました。そこにたくさんの虫たちが群がっており、陰毛みたいになっていました。母なる大地に生命は返っていくのだ、午後の柔らかい日差しを背中で受けながらそう思いました。

 

「興奮しなくたっていいのに、国会じゃないんだから。そう思わない?」

 

私は、信号を待っていた若いカップルにそう言いました。その1人が言いました。

 

「事実とは何か?物神とは何か?」

 

私は混乱しました。取り乱してしまいました。また別の1人が答えました。

 

「われわれは一度も近代的でなかった」

 

2人の男たちは、そのまま砕けて死にました。

 

私はその2人に手向けの言葉を送りました。

 

「事実は作られるのだ」と。



夜はおでんを食べました。大根、はんぺん、アジのツミレ。薄味で温かい。薄くても認識させてくれる優しい世界が構築されました。わたしたちは、薄味の出汁を捉え直すことで、世界をもっと違ったものにできるのではないか。われわれの認識の枠組みをもう一度、花のあまりの色彩に畏れを抱いていたあの頃に、まったく同じというわけにはいかないが、あの感覚から世界をもう一度。



仮想現実と反実仮想。

 

仮の想いが実った現と、反った実の仮の想い。



私は仮想現実よりも、反実仮想がすきでちゅ♡



かしこ






小さい頃に星が綺麗だと本当に思ったことなんてあったのでしょうか

 天蓋に在る邪。ガラスの反射に目を細める。朝になった。枕の横に電子タバコの吸い殻が2本転がっている。吸い殻の中身が飛び出し、ささくれのように見える。ここは家。壁面を担うのはコンクリート。灰色の幾何学

 歯を磨く。鏡の前に立ち、顔を見る。もしも、自分の顔が鏡であったならば、鏡を見たとき、自分の顔は把握できないだろう。他者は自分を写す鏡という。そして、また自分も他者にとって鏡である。とするならば、他者から自分を把握することはできない。詭弁です。

 まなざし。他者から見られるということ。他者を見るということ。規定。相互補完的なまなざし。相互内化よろしくない。永山則夫。銀色の鉛に実存を添えて。まなざすその主体が、まさにそのまなざしを向けるとき、それは幻想的な風景。ラベンダー畑にそっと手向けられた尿瓶のようにはならない。とても弱い現実。強度はあまりなさそうに見える。しかし、実存する者にとっては、ただただ地獄。

 

 現実の強度を変えられるときが確かにある。そういった思想がある。それを試みる思想がある。シュルレアリスムという。

 当たり前を当たり前でなくする。演劇では、異化効果とよばれている。日本で演劇と呼ばれているものは、そのほとんどが演劇ではない(らしい)。知らんけど。日本という呼称について。

 

 その街には、星がありました。とっても、とっても美しい星たちが、爛々と輝いていました。われわれの先人たちは、夜空を見上げ、物語を織りました。天上に輝くその幻を、構造として把握し、幾年もの歴史を与えました。われわれにも、それらが受け継がれているのです。宗教、占い、物語、生活に至るまで。

 ところで、先人たちはなぜ、その物語に戦争など、血生臭いもので織ったのでしょうか。そして、出生譚も奇妙なものがあります。もちろん、日本に残っているものでもそうですね。そうした理由や、そうしなければならなかった理由はなんでしょうね。無粋ですね。天蓋は砕けないものです。天蓋もまた、共同幻想でしょう。

 

 パンツが破れていました。前側の上。糸がほつれているのには気づいていましたが、まさか破れていたとは。見たとき、少し悲しくなりました。

 

 弱い悲しさとか、強い悲しさとか、質がありますね。グラデーションですね。もちろん、強弱だけではないですね。また、いろいろな悲しさがありますね。ヴァリエーションですね。そして、悲しみがその身体に豊潤化されたとき、ただ一つの悲しさが在るのではなく、いくつもの悲しさが在るものですね。